夏五月 郭淮の昇進
呉の継嗣問題
- 呉では潘夫人が寵愛され、少子の孫亮を生んでいた。
- 孫権は孫亮を愛し、全公主は太子孫和と不仲であったため、あらかじめ孫亮と結びつこうとして、その夫の兄の子全尚の娘を孫亮に娶わせた。
- 孫権は魯王孫霸が朋党を結んで兄を害するのを憎み、また兄弟の争いが袁氏のような滅亡を招くと恐れ、ついに孫和を廃し孫亮を立てる意志を固めていった。
秋 太子孫和の廃位
- 孫権は太子孫和を幽閉しようとした。
- 驃騎将軍朱拠は、太子は国家の根本であり仁孝で民望もある、晋の申生や漢の戾太子の悲劇を繰り返してはならないと諫めたが、聞き入れられなかった。
- 朱拠・尚書僕射屈晃は将吏を率い、泥に額をこすりつけ自縛して宮門に連日詣で、孫和の存続を請願した。
- 無難督陳正、五営督陳象も切実に諫めた。
- 孫権は怒って陳正・陳象を族誅し、朱拠と屈晃を殿内へ引きずり入れて杖打ちし、それでも二人は叩頭流血しつつ言を曲げなかった。
- 朱拠は新都郡丞へ左遷、屈晃は放逐された。
- 群臣のうち諫争したために誅・放された者は十数人に上った。
- ついに孫和は庶人に落とされ故鄣へ移され、魯王孫霸は死を賜わった。
- また、孫霸に与して孫和を讒したとされる楊笁・全寄・呉安・孫奇らも誅された。
朱拠の死
- 朱拠はまだ左遷先へ着かないうちに、中書令孫弘が詔書をもって追及し、自殺を命じた。
冬十月 文欽の偽叛
- 廬江太守文欽は偽って魏に背き、呉の偏将軍朱異を誘い出そうとした。
- 朱異はこれを見抜き、迎え入れるべきでないと上奏した。
- しかし孫権は、北方がまだ安定していない以上、帰順の意を見せる者は迎えるべきだとし、もし偽りがあっても策を設け兵を重ねて防げばよいと述べた。
- こうして偏将軍呂拠に二万を授け、朱異とともに北境へ向かわせた。
- 結局、文欽は降らなかった。
十一月・十二月 呉の防衛策と魏の動き
- 十一月、孫礼が死去した。
- 呉主は孫亮を太子に立てた。
- 呉は十万の人員を使って堂邑から涂塘を築き、北方から建業へ迫る道を水で遮断しようとした。これは良将の多くを失い、自衛に重点を置くようになった老孫権の戦略の一端であった。
- 十二月、東海定王曹霖が死去した。
- 征南将軍王昶は、孫権が良臣を流放し嫡庶相争わせている今こそ付け入る隙だと上言し、朝廷はこれに従った。
- 新城太守州泰は巫・秭帰を襲い、荊州刺史王基は夷陵へ、王昶自身は江陵へ向かった。
- 王昶は竹索で橋を作って水を渡り、呉の施績を夜のうちに江陵へ退かせた。
- さらに退却を装って誘い出し、施績が追って来たところを伏兵で大破し、鍾離茂・許旻を斬った。
- 同じころ、蜀漢の姜維はまた西平へ侵攻したが、成果を得られなかった。