資治通鑑魏紀七 邵陵厲公 嘉平 元年 250年

春三月 呉の朱然死後の軍政評価

  • 朱然の用兵は、平時から朝夕に厳鼓を鳴らして兵を整列させることで、敵に備えの真意を悟らせない点に特色があったと評された。
  • 呉主は彼の病中・死後ともに格別の礼遇を示した。

夏四月 魏の改元後の余波

  • 嘉平改元後も、曹爽誅滅の余震は続いた。
  • 蒋済は、自らの書簡が曹爽を油断させたことを深く恥じて病み、そのまま死去したことが改めて語られた。

秋 姜維の再侵攻と鄧艾の洞察

  • 姜維は再び雍州へ侵攻し、麴山の二城を拠点として羌胡を引きつけ、諸郡を圧迫した。
  • 郭淮・陳泰・徐質・鄧艾らは包囲によってこれに対処した。
  • 姜維は牛頭山から救援に現れたが、陳泰は野戦を避け、帰路遮断を主眼とした。
  • 姜維が退いた後も鄧艾は、敵がすぐ遠くへ去ったとは限らないと見て白水北に留まり、のちに姜維の東方奇襲を予測して先回りし、洮城を守った。
  • この判断により魏軍は敗北を免れ、蜀軍は撤退した。

淮南の謀議の進展

  • 王凌と令狐愚による楚王曹彪擁立計画は水面下で続いた。
  • 令狐愚は張式を白馬へ送り、楚王との連絡を重ねた。
  • ただし王広の諫言に見えるように、司馬懿政権がただちに暴政を敷いたわけではなく、むしろ賢者登用と旧制回復によって一定の支持を得ていたため、計画の実行は容易ではなかった。

冬 令狐愚の死後

  • 令狐愚は病没し、王凌が単独で淮南の計画を背負う形となった。
  • 孫礼が司空に進み、徐邈の節操は改めて称賛された。