資治通鑑魏紀七 邵陵厲公 嘉平 元年 249年

春正月甲午 高平陵の変

  • 帝が高平陵へ参詣した際、曹爽は弟の中領軍曹羲・武衛将軍曹訓・散騎常侍曹彦らとともに随行した。
  • この隙に司馬懿は皇太后の令を奉じて洛陽の諸門を閉じ、兵を動かして武庫を押さえ、洛水の浮橋を守った。
  • 司徒高柔に仮節を与えて大将軍曹爽の営を接収させ、太僕王観に中領軍の営を押さえさせた。
  • さらに帝に奏上し、曹爽が先帝の遺命に背き、兵権を独占し、側近の張当に至尊をうかがわせ、二宮を離間し、国家を危うくしていると糾弾した。

曹爽の動揺と桓範の脱出

  • 曹爽は奏文を受け取ったが、帝に取り次ぐこともできず、伊水南に車駕を留め、柵を作り屯田兵を集めて守りとした。
  • 司馬懿は許允・陳泰を遣わして、早く罪を認めれば官を解くだけで済むと説得させた。
  • 曹爽の側近尹大目にも同様に伝えさせ、洛水を誓いの場として安全を保証した。
  • そのころ、桓範は召しを受けて中領軍に就くよう求められたが、子に止められ、平昌門から偽って脱出して曹爽のもとへ向かった。
  • 司馬懿はこれを知ると「知恵袋が行ってしまった」と言ったが、蒋済は、桓範は智者でも曹爽は家門と安逸に執着してその計を採れまいと見抜いた。

許昌遷都案と曹爽の降伏

  • 桓範は、天子を奉じて許昌へ移り、四方の兵を徴して挽回すべきだと曹爽兄弟に繰り返し勧めた。
  • 洛陽外の典農治所を利用し、許昌の兵器庫も使える、足りないのは兵糧だけで大司農印は自分が持っていると具体策まで示した。
  • しかし曹爽兄弟は決断できず、ついに夜明け前、曹爽は刀を地に投げて「富家の老人でいられればよい」と言い、降伏を決めた。
  • 桓範は、父曹真の立派さに比して豚や子牛のような器量しかないと泣いて罵り、一族を滅ぼすことになると嘆いた。

曹爽一党の誅殺

  • 曹爽は司馬懿の奏文を帝に示し、詔を受けて官を辞し、帝を奉じて宮中へ帰った。
  • 司馬懿は洛陽の吏卒に曹爽兄弟の家を囲ませ、楼を四隅に建ててその動静を監視した。
  • やがて黄門張当が取り調べられ、選んだ才人を曹爽に与えた件から、何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝らと反逆を謀ったと自白した。
  • これにより曹爽・曹羲・曹訓・何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範らは逮捕され、大逆不道の罪で張当とともに三族誅滅となった。

義を守った者たち

  • 司馬魯芝は変を聞くと、営の騎兵を率いて門を斬り開き曹爽のもとへ向かおうとした。曹爽が印綬を解いて出ようとした時も、主簿楊綜は、天子を奉じ権を握っているのにこのまま東市へ向かうのかと引き止めた。
  • しかし司馬懿は、彼らはそれぞれ主君のために尽くしただけだとして赦し、後に魯芝を御史中丞、楊綜を尚書に任じた。
  • また辛敞は、姉の辛憲英に相談したところ、司馬懿の狙いは曹爽討伐であり、職務を捨てるのは大義に反すると諭され、出仕した。
  • 辛敞は後に、姉に相談しなければ義を失うところだったと嘆いた。

節義を守った夏侯令女

  • 曹爽の従弟の妻、夏侯令女は若くして寡婦となっていた。
  • 父は再嫁させようとしていたが、令女は耳を切り落として拒み、さらに曹爽一門誅滅後も強引に連れ戻されて再嫁を迫られると、今度は鼻を切ってまで節義を守った。
  • 一族は、夫家は滅びたのだから誰のために苦しむのかと諭したが、令女は、盛衰で節を変えるのは禽獣のすることであり、曹氏が栄えていた時ですら添い遂げようと思っていたのだから、まして衰亡した今こそ捨てられないと答えた。
  • 司馬懿はその志を賢いとして、曹氏の後を継ぐ養子を立てることを許した。

何晏らの人物評と清談の風

  • 何晏らは当時の才士を自任し、夏侯玄や司馬師を高く品評し、自分もまた神妙の域にあるかのように振る舞った。
  • 劉陶は若くして弁舌をもって称賛され、孔子すら天下を得られなかったのだから聖人ではないと傅玄に論じたが、傅玄は後日の窮地を見て言葉の過ちを悟らせた。
  • 管輅は、何晏と鄧颺の敗亡の相を体つきや顔色から読み取っていたと舅に説明した。
  • 何晏は粉飾を好み、『老子』『荘子』を愛し、夏侯玄・荀粲・王弼らと競って清談を行い、六経を古聖の残りかすのようにみなした。
  • こうして天下の士大夫がこれを模倣し、のちに抑え難い風潮となった。

丙午・丁未 大赦と司馬懿への加位

  • 丙午に大赦があり、翌丁未、司馬懿は丞相となり九錫を加えられたが、固く辞退した。

夏侯霸の蜀奔

  • 右将軍夏侯霸は、父夏侯淵が蜀との戦いで死んだことから蜀への復讐心を抱き、隴西に屯して討蜀護軍を務めていた。
  • 爽誅殺後、司馬懿が征西将軍夏侯玄を召還し、郭淮に交代させたため、自分にも禍が及ぶと恐れて蜀へ奔った。
  • 蜀主は、父の死は戦場でのことで先人が手を下したわけではないと慰め、厚遇した。
  • 姜維が今後の魏の動向を尋ねると、夏侯霸は、司馬懿はいま家門の基礎固めで手いっぱいだが、鍾会のような若手が政権を握れば呉蜀の憂いになるだろうと語った。

三月・四月 呉の朱然死去と改元

  • 三月、呉の左大司馬朱然が死去した。
  • 朱然は背丈こそ高くないが、態度は厳正で、平時でも常に戦時さながらに兵を整え、敵に備えを悟らせなかったため、出兵すればたびたび功があった。
  • 重病になると、呉主は食事や睡眠を減らしてまで気遣い、中使をたびたび送って見舞い、死に際して深く哀悼した。
  • 四月乙丑、魏は嘉平と改元した。

蔣済の悔恨と死

  • かつて曹爽に、司馬懿の意図は免官にとどまると書き送った蔣済は、曹爽誅殺後に都郷侯へ進封された。
  • しかし自分の言葉が結果として曹爽を死に導いたことを病み、重い病となって丙子に死去した。

秋 姜維の麴山築城と郭淮・陳泰・鄧艾

  • 蜀漢の姜維は雍州へ侵入し、麴山に二城を築いて句安・李歆らに守らせ、羌胡の人質を集めて諸郡を圧迫した。
  • 征西将軍郭淮と雍州刺史陳泰は討伐に向かった。陳泰は、麴山は堅いが蜀から遠く補給が難しいので、包囲して水と糧道を断てば流血なしに落とせると判断した。
  • 郭淮はその策に従い、陳泰・徐質・鄧艾らに包囲させた。
  • 姜維は牛頭山から救援に出たが、陳泰はあえて戦わず、郭淮に牛頭山方面へ進んで帰路を塞ぐよう知らせた。
  • 郭淮が洮水方面へ進むと、姜維は恐れて退き、孤立した守将らは降伏した。
  • 郭淮はさらに西方の羌を攻めたが、鄧艾は姜維が戻る可能性を見て白水北に留まった。
  • その後、姜維は廖化を南から向かわせて鄧艾を牽制しつつ、自ら東から洮城を衝こうとしたが、鄧艾はこれを読み、夜のうちに先回りして城を確保し、魏軍は危機を免れた。

王凌・令狐愚の密謀

  • 兗州刺史令狐愚は司空王凌の甥で、両者は淮南の重兵を握っていた。
  • 彼らは、帝が暗弱で強臣に制せられているとして、楚王曹彪を迎えて許昌に遷し、擁立しようとひそかに計った。
  • 九月、令狐愚は部将張式を白馬に遣わし、曹彪と通じた。
  • 王凌も洛陽にいる子王広へ計画を伝えたが、王広は、曹爽が滅んだのは民心を失ったからであり、司馬懿はいま賢者を挙げ、旧政を修めている以上、父子兄弟で兵権を握る司馬氏を今倒すことは難しいと諫めた。
  • 王凌は従わなかった。

冬 令狐愚の死と人事

  • 十一月、令狐愚は再び張式を楚王のもとへ送ったが、帰らぬうちに病死した。
  • 十二月、王凌は現地で太尉に任じられた。孫礼は司空となった。
  • 光禄大夫徐邈も死去した。盧欽は、世の流行が清素から奢靡へ変わっても徐邈だけは平素を変えず、その一貫した節操こそ真価だと評した。