春正月・二月 対呉戦の戦果と人事
- 王基と州泰は呉兵を撃ち破り、数千人を降した。
- 二月、尚書令司馬孚が司空となった。
夏四月 王昶の昇進と王凌討伐
- 四月甲申、王昶は呉軍撃破の功により征南大将軍となった。
- 壬辰、大赦が行われた。
- 太尉王凌は、呉人が涂水を塞いだことに乗じて兵を発しようとし、軍を厳しく整えて討伐を請うたが、詔は許さなかった。
- 王凌は将軍楊弘に、帝の廃立計画を兗州刺史黄華へ伝えさせた。
- しかし黄華・楊弘は連名でこれを司馬懿へ通報した。
- 司馬懿は中軍を率い水路から進み、まず王凌の罪を赦す詔を出し、書簡でも諭したうえで、不意に百尺へ大軍を進めた。
- 王凌は窮したことを悟り、小舟で出頭して印綬・節鉞を差し出した。
- 丘頭で面縛したが、司馬懿は表向き詔に従って縄を解かせた。
- 王凌は古い交情を頼んで近づこうとしたが、司馬懿は船を遠ざけさせたため、自分が罪人として扱われていることを悟った。
- 王凌が、簡単な書簡一本で呼べば来たのに、なぜ大軍を率いたのかと言うと、司馬懿は、お前がその程度の召喚で来る人間ではないからだと答えた。
- 王凌は西へ送られる途中、棺の釘を求めて司馬懿の真意を探ったが、司馬懿は与えた。これにより死を免れないと知り、五月甲寅、項に至って毒を飲んで死んだ。
- 司馬懿は寿春へ進み、張式らを自首させ、関係者を徹底的に取り調べて三族を誅し、王凌・令狐愚の墓を暴いて棺を割り、市場にさらしたのち、印綬や章服を焼き、裸葬に近い形で埋めた。
令狐愚の人物評と単固・楊康
- 令狐愚は若い頃から大志を抱いていたが、族父の令狐邵だけは、徳を修めず大を望む性格では一門を滅ぼすだろうと見ていた。
- 愚はそれを恨みに思っていたが、後に令狐邵は家人に、愚の本性は昔のままで、結局は敗滅し、自分たちも連座するだろうと予言した。
- その言葉どおり、十余年後に一族は滅んだ。
- 令狐愚に用いられた別駕単固と治中楊康は腹心であったが、愚の死後、楊康は洛陽で愚の陰謀を暴露したため、事件が発覚した。
- 司馬懿は寿春で単固を尋問し、はじめは否認したものの、楊康との対質で追い詰めた。
- 単固は楊康を「老奴」と罵り、主君を裏切って自分の一族まで滅ぼしたのだから、お前も生き延びられまいと呪った。
- 楊康も供述に食い違いが出て、結局は単固とともに処刑された。
諸葛誕の起用、呉の改元と諸王監視
- 朝廷は揚州刺史諸葛誕を鎮東将軍・都督揚州諸軍事に任じた。
- 呉では潘夫人が皇后となり、大赦が行われ、太元と改元した。
- 六月、楚王曹彪が死を賜り、諸王公はみな鄴に集められて厳重に監視され、人との交際も禁じられた。
秋七月・八月 甄皇后と司馬懿の死
- 七月壬戌、皇后甄氏が死去した。
- 辛未、司馬孚が太尉となった。
- 八月戊寅、司馬懿が死去した。
- 詔してその子、衛将軍司馬師を撫軍大将軍・録尚書事とし、政権を継がせた。
鄧艾の対胡政策
- 南匈奴は自らを漢室外戚の末と称して劉氏を名乗っていた。
- 曹操は呼厨泉単于を鄴に留め、その部衆を五部に分けて并州に住まわせていた。
- 左賢王劉豹はその中で最強の勢力を持っていた。
- 城陽太守鄧艾は、単于を内地に置くと諸胡が統率を失い、単于の名は空しく外部勢力だけが強まるとして、劉豹の国を分けて二国とし、去卑の子に顕号を与えて雁門に住まわせるべきだと上言した。
- さらに羌胡を徐々に編民の外へ移し、漢民との混住を減らすべきだとも提案した。
- 司馬師はこれをすべて採用した。
呉主の晩年と陸抗
- 呉では陸抗が柴桑に屯していたが、建業で療養して快復すると、帰任に際し呉主は涙を流して別れた。
- 呉主は、自分がかつて讒言を信じて陸遜との大義を損ねたことを悔やみ、前後の問責文書はすべて焼き捨て、人に見せるなと陸抗に告げた。
- またこのころ、呉主は太子孫和が無罪であったことをやや悟り、南郊祭祀から帰った後の病で孫和を呼び戻そうとしたが、全公主・孫峻・孫弘が強く反対したため実現しなかった。
呉の後事委託
- 呉主は孫亮が幼いため、誰に後事を託すかを議した。
- 孫峻は大将軍諸葛恪を推し、孫権はその剛直・専断を嫌ったが、朝臣にこれを超える才はないとして召し寄せた。
- 武昌から出発する諸葛恪に、上大将軍呂岱は「何事も十度考えよ」と戒めたが、諸葛恪は孔子の言葉を引いて、二、三度で十分なのに十思とは自分を愚と見るのかと受け流した。
- 後世の論者は、呂岱の慎重な忠告を退けたことに、諸葛恪滅亡の兆しがすでにあったと評している。
- 諸葛恪は建業に着くと、呉主の寝所で詔を受け、大将軍兼太子太傅となった。孫弘は少傅となり、殺生のような大事のみ奏聞し、それ以外の百司の事は一切諸葛恪に統一させる体制が定められた。
- さらに会稽太守滕胤が太常となった。
十二月 司空鄭冲と蜀漢の動き
- 十二月、光禄勲鄭冲が司空となった。
- 蜀漢の費禕は成都に戻ったが、望気者が都に宰相の位がないと言ったため、再び北へ出て漢寿に屯した。
- この年、蜀漢の尚書令呂乂が死去し、侍中陳祇が尚書令を代行した。これにより黄皓がさらに用いられる素地が生まれた。
呉の潘后・孫権の死と諸葛恪の執政
- 呉では二月、張氏が魏皇后に立った一方、呉は神鳳と改元し大赦した。
- 潘皇后は剛戻で、孫権の病中に孫弘へ呂后の故事を尋ね、称制を企てる気配を見せた。側近たちはその後事を恐れ、孫権の病が重い間に彼女を絞め殺し、急病死と偽った。のちに事が漏れて関係者数人が死罪となった。
- 孫権は重体になると、諸葛恪・孫弘・滕胤・呂拠・孫峻を寝所へ呼び、後事を託した。
- 夏四月、孫権が死去した。年七十一。
- 孫弘は以前から諸葛恪と不和で、恪に先んじて偽詔でこれを誅そうとしたが、孫峻がこの計を諸葛恪に知らせた。
- 諸葛恪は相談を装って孫弘を席上に招き、その場で斬り殺した。
- その後に発喪し、孫権に大皇帝の諡を贈り、太子孫亮が十歳で即位した。建興と改元し、大赦を行った。
- 閏月、諸葛恪は太傅、滕胤は衛将軍、呂岱は大司馬となった。
諸葛恪の新政
- 諸葛恪は、監察のために設けられていた校官を廃し、滞納債務を赦し、関税を除いた。
- 恩沢を広げたため、人々は大いに喜び、彼が出入りすると百姓は首を伸ばして姿を見ようとした。
- また諸王が兵地の江辺にいるのを好まず、斉王孫奮を豫章へ、琅邪王孫休を丹陽へ移そうとした。
- 孫奮が従わないと、諸葛恪は長文の牋を送り、天下は公のものであり、親族であっても善は挙げ悪は罰すべきで、前漢の諸王のような驕恣が国家を乱すのだと説き、魯王孫霸の末路を戒めとして早く移るよう迫った。
- 孫奮は恐れて南昌へ移った。
冬十月 東興の築城
- 孫権がかつて築いた東興堤は、以前の敗戦以後放棄されていたが、諸葛恪は兵を集めて再建し、左右の山の間に大堤を築き、両側に二城を設けた。
- 西城は全端、東城は留略にそれぞれ千人ずつで守らせた。
魏の対呉作戦論争
- 鎮東将軍諸葛誕は、今こそ王昶を江陵へ、毋丘儉を武昌へ向かわせて上流を牽制し、その上で東興二城を攻めれば大きな成果を得られると司馬師に進言した。
- 王昶・胡遵・毋丘儉らも各自征呉策を献じた。
- 朝廷は方針が定まらず、尚書傅嘏に意見を求めた。
- 傅嘏は、奇襲・四道進軍・境上屯田などの策を比較したうえで、呉は長年の敵であり君臣が苦楽を共にしていて簡単に崩れず、大軍で険地に臨むのは危うい、むしろ辺境で大規模に屯田し、肥沃な地を奪って相手を痩地へ追いやり、降附を誘い、間諜を防ぎ、好機に討つのが上策だと論じた。
- しかし司馬師はこの意見を用いなかった。
十一月・十二月 魏の三道侵攻と東興の敗戦
- 十一月、王昶・毋丘儉・胡遵らに三道から呉を攻めさせる詔が出た。
- 十二月、王昶は南郡、毋丘儉は武昌、胡遵と諸葛誕は十万を率いて東興を攻めた。
- 胡遵らは浮橋を作って堤上に布陣し、二城を攻めたが、城は高険で急には落ちなかった。
- 呉の諸葛恪は四万を率いて昼夜兼行で救援に向かった。
- 前軍を任された丁奉は、諸軍の進みが遅いと見て、自ら麾下三千で先行し、徐塘を占拠した。
- 大雪と寒気の中、魏軍前部は酒宴中で警戒が緩んでいた。
- 丁奉は兵に鎧と長兵器を捨てさせ、兜・刀・楯だけで半裸のまま堤をよじ登らせた。魏軍はそれを見て笑い、即座に戦闘態勢を取らなかった。
- 呉兵は一気に攻め込み、魏の前屯を打ち破った。呂拠・留賛・唐咨らも続いて到着し、魏軍は混乱して退却、浮橋は壊れ、多くが水へ落ちて踏み合いとなった。
- 前部督韓綜、楽安太守桓嘉らが戦死し、死者は数万に上った。
- 韓綜はもとは呉からの叛将で、孫権が深く恨んでいたため、諸葛恪はその首を孫権廟へ送って告げた。
- 呉軍は車馬・牛馬・騾驢・軍資を大量に鹵獲して帰還した。
蜀漢の郭脩
- 以前、西平侵攻の際に姜維が捕らえた魏の中郎将郭脩は、蜀で左将軍とされた。
- 郭脩はしばしば寿賀の席などで近づき、蜀主を刺そうとしたが、いつも左右に阻まれて果たせなかった。これは後日の事件への伏線となる。