資治通鑑魏紀六 烈祖明皇帝 景初 三年 239年

正月 明帝崩御と斉王即位

  • 春正月、司馬懿が到着して入見すると、明帝はその手を握り、後事を託して曹爽とともに幼い皇子を補佐せよと命じた。
  • さらに斉王曹芳を指して「これだ、見誤るな」と念を押し、斉王に司馬懿の首へ抱きつかせた。司馬懿は拝伏して涙を流した。
  • 翌日、曹芳は皇太子に立てられ、ほどなく明帝は崩じた。
  • 明帝は判断力と記憶力に優れ、大事を決する才があったと評される一方、宗室基盤を固めなかったため、のちに大権が偏って魏の社稷を守れなかったと論じられている。

曹爽・司馬懿の共同輔政

  • 皇太子曹芳が即位した。年は八歳であった。
  • 大赦が行われ、郭皇后は皇太后となった。
  • 曹爽と司馬懿はともに侍中・仮節鉞・都督中外諸軍・録尚書事となり、軍政と政務の大権を握った。
  • 宮室造営などの諸事業は、遺詔によってすべて停止された。
  • 曹爽と司馬懿はそれぞれ兵三千を率いて交替で宮中宿衛に当たり、曹爽は当初、司馬懿を父のように敬って何事も相談し、独断しようとしなかった。

曹爽政権の側近集団

  • もと并州刺史の畢軌、鄧颺、李勝、何晏、丁謐らは名声と才名があったが、富貴に急で浮華を好んだため、明帝には疎まれて用いられなかった。
  • しかし曹爽は彼らと親しく、輔政に就くとただちに引き立てて腹心とした。何晏は何進の孫、丁謐は丁斐の子である。
  • 彼らは、重権を他人に委ねてはならないと曹爽をけしかけた。
  • 丁謐は曹爽に策を授け、司馬懿を太傅へ転じて名目上は尊びつつ、実権を外すよう勧めた。曹爽はこれに従った。

二月以後 司馬懿を太傅へ

  • 二月丁丑、司馬懿を太傅とした。
  • 曹爽の弟の曹羲を中領軍、曹訓を武衛将軍、曹彦を散騎常侍・侍講とし、ほかの弟たちも列侯として禁中に出入りさせた。曹氏一門の栄寵はきわめて盛んであった。
  • 曹爽は司馬懿に表面上の礼を尽くしたが、実際には諸事の決定をほとんど通さなくなった。
  • さらに盧毓を吏部尚書から僕射へ動かし、何晏を後任とした。鄧颺・丁謐を尚書、畢軌を司隷校尉に据え、彼らは権勢を頼んで人事を左右した。
  • 黄門侍郎の傅嘏は曹羲に対し、何晏は外見こそ静かだが内面は躁急で利に鋭く、やがて曹爽兄弟を惑わせ、仁者が退いて朝政が乱れるだろうと警告した。
  • そのため何晏らは傅嘏を嫌い、些細な件で官を罷めさせた。盧毓も廷尉へ出され、さらに畢軌の曲げた弾劾で失脚しかけたが、世論の擁護で光禄勲に戻された。
  • 孫礼は剛直で曹爽の意にかなわず、揚州刺史として外に出された。

三月・四月 魏呉蜀の動き

  • 三月、征東将軍の満寵を太尉とした。
  • 夏四月、呉の督軍使者の羊衜が遼東の守将を攻め、人民を捕えて帰った。前年の蔣済の見通しどおり、呉は浅く利益を取る行動にとどまった。
  • 蜀漢では、蔣琬が大司馬となった。
  • 東曹掾の楊戯は無口で簡略な人柄だったが、蔣琬はこれを咎めず、人それぞれ性質が違うと受け止めた。また楊敏が蔣琬を「仕事ぶりが前任者に及ばず乱雑だ」と言っても、蔣琬は自ら不如を認めて処罰せず、のちに楊敏が罪に問われた際にも重罪から救った。

秋冬 内政と地方反乱

  • 秋七月、魏帝は初めて自ら朝政に臨んだ。
  • 八月、大赦があった。
  • 冬十月、呉の太常潘濬が死去した。孫権は呂岱に代え、陸遜とともに荊州方面の文書を統括させた。呂岱は八十歳に近かったが、なお精勤で、陸遜と協力して南方で高い評判を得た。
  • 十二月、呉将の廖式が臨賀太守厳綱らを殺して平南将軍と称し、零陵・桂陽を攻めて交州諸郡を動揺させた。
  • 呂岱は独断で出撃を願い出て昼夜兼行し、孫権も追って交州牧に任じ、唐咨ら諸将を相次いで送った。およそ一年で廖式らを討ち、郡県を平定した。
  • 呂岱はその後、武昌へ戻った。

周胤の処分

  • 呉の都郷侯周胤は公安に千人を率いて駐屯していたが、罪を得て廬陵へ流された。
  • 諸葛瑾と歩隲が赦免を願うと、孫権は、周胤は周瑜の子として特別に兵と爵位を与えたのに、それに驕って酒乱と放縦を改めなかったので、いったん苦しめて自覚させたいのだと述べた。
  • また周瑜の兄の子・周峻が死ぬと、全琮はその子周護に兵を継がせるよう請うたが、孫権は周護の性行を危険視して認めなかった。周瑜への思いは深いが、ただ情だけで任せるわけにはいかないという姿勢を示した。

年末 正朔の変更

  • 十二月、魏では再び建寅の月を正月とするよう詔した。景初暦は用いつつ、十一月を歳首とする制度は改めた。