正月 司馬懿の遼東遠征が決まる
- 春正月、魏の明帝は長安にいた司馬懿を召し、兵四万を率いて遼東の公孫淵討伐に向かわせた。諸葛亮が死去するまでは蜀への備えとして長安に留めていたが、その死後ようやく遠征に充てたのである。
- 一部の議臣は、兵数が多く軍費も重いとして反対したが、明帝は「遠征では奇策だけでなく兵力も要る。費用を惜しむべきではない」と退けた。
- 明帝が公孫淵の対応を問うと、司馬懿は「最上は逃亡、次は遼水で抗戦、最もありそうなのは襄平に籠城することだが、その場合は捕えるだけだ」と見通しを述べた。
- さらに司馬懿は、往復と攻城に各百日、休養六十日を見込めば一年で事が済むと答えた。
呉への救援要請と魏の見立て
- 公孫淵は魏軍来襲を聞くと、再び呉へ使者を送り、称臣して救援を求めた。
- 呉では使者を殺そうという意見も出たが、羊衜は、過去の恨みにとらわれず外交上の利益を取るべきだと説いた。魏が苦戦すれば恩を売れ、膠着すれば周辺を襲って利益も得られるという計算であった。
- 孫権はこれを採り、公孫淵の使者に対して、正式な軍令を待って救援すると伝えつつ、司馬懿の実力を警戒しているとも述べた。
- 明帝が蔣済に呉の出兵可能性を問うと、蔣済は、孫権は深く攻め込む利がなく、本気では動かないだろうとした。ただし、沓渚方面から浅く兵を出して襲撃する可能性はあると警告した。
司徒の人選と蜀漢の立太子
- 明帝は吏部尚書の盧毓に司徒の適任者を問うた。盧毓はまず隠士の管寧を推したが採用されず、次善として韓暨・崔林・常林を挙げた。
- 二月癸卯、韓暨を司徒とした。
- このころ蜀漢では、後主が張氏を皇后に立て、その妹にあたる先皇后に続く張氏の姉妹が相次いで后となった。王貴人の子の劉璿を皇太子、劉瑶を安定王とした。
- 大司農の孟光が太子の学問や人柄を卻正に尋ねたところ、卻正は孝養と仁恕を称えた。孟光はそれだけでは凡庸だと言い、さらに才略を問うたが、卻正は太子は父君を補佐する立場であり、智謀は時が来なければ分からないと慎重に答えた。孟光はその応答を是とした。
呉の大銭鋳造と魏国内の動き
- 呉では高額面の「当千大銭」を鋳造した。
- 夏四月、司徒の韓暨が死去した。
- 庚戌、魏で大赦があった。
六月以後 司馬懿、襄平を包囲する
- 六月、司馬懿の軍は遼東に到着した。公孫淵は卑衍・楊祚らに歩騎数万を与え、遼隧に長大な塹壕と陣地を築いて待ち受けた。
- 諸将はこれを攻めようとしたが、司馬懿は敵が持久戦に誘おうとしていると見抜き、南へ向かうように見せかけて敵を引きつけ、自らは密かに北から渡河して襄平へ直進した。
- 卑衍らは慌てて夜に撤退し、首山で再戦したが大敗した。司馬懿はそのまま進んで襄平を包囲した。
七月 長雨のなかで包囲を維持
- 秋七月、大雨が続いて遼水が増水し、運船が遼口からそのまま城下へ入れるほどになった。平地にも数尺の水がたまり、軍中には移営を望む声が出た。
- 司馬懿は、移営を口にした者は斬ると命じ、実際に命令違反の張静を処刑して軍心を鎮めた。
- 敵は水勢を頼みに城外で薪取りや放牧を続け、諸将はこれを攻撃したがったが、司馬懿は許さなかった。
- 陳珪が、かつて孟達を急攻して短期間で落としたのに今回は緩慢だと疑問を呈すると、司馬懿は、孟達戦では兵力比と兵糧事情から急攻が得策だったが、今は敵が多くこちらが少なく、しかも敵は飢えこちらは余裕があるので、あえて安心させて逃亡を防ぐべきだと説明した。
- 洛陽では長雨のため撤兵論も出たが、明帝は司馬懿が変に応じて勝つのは日数の問題だとして、退かせなかった。
八月 襄平陥落、公孫淵父子を誅す
- 雨が止むと、司馬懿は包囲を完成させ、土山・地道・楯櫓・鉤衝など攻城設備を整え、昼夜なく攻め立てた。
- 城中では食糧が尽き、人肉食いまで起こり、将の楊祚らが降伏した。
- 八月、公孫淵は相国王建・御史大夫柳甫を使者として送り、いったん包囲を解き退軍してくれれば、のちに君臣そろって縛につくと申し出た。
- 司馬懿はこれを無礼として二人を斬り、改めて若く判断力ある使者を送れと檄文を出した。
- さらに公孫淵は衛演を送って人質提出の日取りを願ったが、司馬懿は「戦えぬなら守り、守れぬなら逃げる。残るは降伏か死かだけだ。今さら人質は不要だ」と断じた。
- 壬午、襄平が陥落すると、公孫淵は子の脩とともに数百騎で東南へ脱出したが、梁水のほとりで追いつかれて父子ともに斬られた。
遼東平定後の処置
- 司馬懿は城内に入ると、公孫淵配下の公卿以下と兵民あわせて七千余人を誅殺し、その遺体を積んで京観を築いた。
- こうして遼東・帯方・楽浪・玄菟の四郡はすべて平定された。
- 公孫淵が反逆を図った際に諫めて殺された綸直・賈範らについては、その墓を封じて遺族を顕彰した。
- かつて公孫淵に幽閉されていた叔父の公孫恭も釈放した。
- 中国本土出身者で故郷への帰還を望む者には自由に帰らせ、司馬懿は軍を返した。
公孫晃処刑をめぐる議論
- もともと公孫淵の兄の公孫晃は人質として洛陽におり、弟の異変をたびたび朝廷に告げていた。
- しかしいざ公孫淵が叛くと、明帝は一族として晃も処分しようとした。ただし市場での斬首は名分がないため、獄中で死なせようとした。
- 廷尉の高柔は、晃は先に危機を通報しており心情を汲むべきだ、赦さないなら公に罪を明らかにすべきで、密かに死に追いやるのは国家に疑念を招くと諫めた。
- それでも明帝は聞き入れず、使者に金屑を持たせて毒を飲ませ、公孫晃と妻子を死なせたうえで棺や衣を与え、自宅で殯葬させた。
九月 呉で赤烏と改元、歩夫人死去
- 九月、呉は赤烏と改元した。宮殿前に赤い烏が現れたことを瑞兆としたためである。
- 呉では歩夫人が死去した。孫権はかつて徐氏を娶っていたが、のちに武昌へ移る際に徐氏を呉に留め、歩夫人が後宮で最も寵愛を受けるようになった。
- 孫権は歩夫人を皇后に立てたかったが、徐氏が正室であるため群臣は反対し、十年以上決めかねていた。
- 歩夫人の死後、群臣は皇后として追贈するよう奏上し、印綬も贈られたが、徐氏は結局廃されて呉で死去した。
呂壱の専横と誅殺
- 孫権は中書郎の呂壱に官府や州郡の文書監察を任せたが、呂壱はこれを利用して権勢を振るい、細かな法文を操って無実の者を陥れ、大臣の些細な過失まで必ず告げた。
- 太子の孫登はたびたび諫めたが、孫権は聞き入れず、群臣も恐れて口を閉ざした。
- 呂壱は刁嘉が国政を誹謗したと訴え、孫権は怒って獄に下した。同席者は皆おそれて聞いたと証言したが、侍中の是儀だけは「聞いていない」と言い切り、厳しい詰問にも供述を変えなかった。孫権はついに是儀と刁嘉を赦した。
- 陸遜や潘濬は呂壱が国を乱すことを憂えて涙ながらに訴えた。
- 呂壱が丞相の顧雍の罪を告発すると、孫権は顧雍を叱責したが、黄門侍郎の謝厷が呂壱に「もし顧雍が退けば潘濬が後任か」と探り、さらに「潘濬はおまえを嫌っているから、明日にはおまえを弾劾するだろう」と言って脅すと、呂壱は恐れて顧雍の件を解いた。
- 潘濬は建業に出て徹底的に諫めようとしたが、孫登が既に何度も言っても聞かれなかったと知ると、百官を集めた席で自らの罪を引き受けてでも呂壱を斬ろうとまで考えた。呂壱はこれを知って病と称して出仕しなかった。
- 歩隲も、顧雍・陸遜・潘濬はいずれも国家の柱石であり、他官に監督させてはならないと上奏した。
- また朱据配下の者が受け取るはずの三万緡を王遂が偽って横領した事件で、呂壱は朱据に罪を着せようとして担当吏を拷問で死なせた。朱据が厚く葬ると、それすら隠蔽だと呂壱は訴えたが、のちに劉助が真相を明らかにし、孫権は大いに悟って呂壱を厳しく取り調べた。
- 顧雍は廷尉として呂壱を取り調べた際、穏やかな顔で供述を問い、なお言いたいことはあるかと声をかけた。尚書郎の懐叙が面前で呂壱を罵ると、顧雍は官には法があるとしてこれを戒めた。
- 呂壱には極刑判決が下り、焼殺や車裂にすべきだという意見も出たが、闞沢は明君の世にそのような刑はふさわしくないと述べ、孫権もこれに従った。
- 呂壱誅殺後、孫権は中書郎の袁礼に諸将を見舞わせ政務への意見を求めたが、諸葛瑾・歩隲・朱然・呂岱らは、民政を担当していないとして意見を避け、陸遜と潘濬に委ねた。
- 孫権はこれを聞いて、自分に過失があったために群臣が遠慮するようになったのだと反省し、遠慮せず諫めるべきだとの長文の詔を出した。
年末 魏の後継問題が動き出す
- 冬十一月壬午、司空の衛臻を司徒、司隷校尉の崔林を司空とした。
- 十二月、蜀漢の蔣琬は漢中に出屯した。
- 同月、明帝は病にかかり、辛巳に郭夫人を皇后に立てた。
- 劉放・孫資は魏の中書機密を長く握っており、明帝の寵任も厚かった。蔣済は以前から、近臣に権が集中すると朋党・賞罰の偏り・言路閉塞を招くと諫めていたが、明帝は聞かなかった。
- 病が重くなると、明帝は武帝の子の燕王曹宇を大将軍とし、夏侯献・曹爽・曹肇・秦朗らとともに後事を託そうとした。
- しかし劉放・孫資は、自分たちと折り合いの悪い曹宇や曹肇らが政権を握れば後難があると恐れ、ひそかにこれを妨げた。曹宇自身も謙遜して辞退した。
- 明帝が誰なら任せられるかと問うと、劉放・孫資は曹爽を推し、司馬懿を補佐役として召すよう勧めた。明帝は曹爽の器量を疑ったが、劉放らに押されて了承した。
- いったん明帝は考えを変えて前命を止めたが、劉放らは再度説得し、ついには病床で帝の手を取って詔を書かせ、曹宇らを罷免した。省中の人々は皆泣いて退出したという。
- 甲申、曹爽を大将軍とし、さらに孫礼を長史として補佐につけた。
- この時、司馬懿は遼東からの帰路で汲にいた。もともと曹宇は、関中防備のため司馬懿をそのまま西へ戻す案を立てており、一方では懿召還の詔も下されたため、前後で命令が食い違った。司馬懿は京師に異変があると疑い、急ぎ洛陽へ向かった。