資治通鑑魏紀五 烈祖明皇帝 景初 元年 237年

正月 三月 改元と制度変更

  • 正月、山茌県で黄龍が現れたと報じられた。
  • 高堂隆は、魏は土徳を受ける国だから黄龍出現はその瑞祥であり、正朔を改め服色を変えることで政治を新たにし、民の耳目を一新すべきだと進言した。
  • 明帝はこれを採用し、三月に改元して景初元年とし、この月を孟夏四月に当てるとした。服色は黄を尊び、犠牲は白を用い、暦も太和暦から景初暦へ改めた。

五月・六月 帰洛・大赦・地震・三祖の廟号

  • 五月、明帝は洛陽へ帰り、まもなく大赦を行った。
  • 六月、京都で地震があった。
  • その後、尚書令陳矯を司徒、僕射衛臻を司空とした。
  • 有司は、武皇帝曹操を魏太祖、文皇帝曹丕を魏高祖、当代の明帝を魏烈祖として、三祖の廟を万世不毀とするよう奏請した。
  • ただし後世には、在位中に自らの廟号まで先に定めるのは礼に反するとの批判が出た。

七月 陳矯の死

  • 七月、東郷貞公陳矯が死去した。

遼東問題と公孫淵の反叛

  • 公孫淵は国内の賓客にしばしば魏への悪言を吐いており、明帝はこれを討つことを考え、荊州刺史毋丘儉を幽州刺史に転じた。
  • 毋丘儉は、明帝の即位以来まだ大きな武功はなく、呉・蜀は険阻ゆえ急に平定しがたいので、まず北方の余力で遼東を定めるべきだと上疏した。
  • 光禄大夫衛臻は、これは戦国的な小策で王者の道ではなく、民が疲弊する中で公孫氏三代の地盤を偏軍で一挙に崩せると見るのは無謀だと反対した。
  • 明帝は聞き入れず、毋丘儉に諸軍と鮮卑・烏桓を率いさせて遼東南境に進ませた。
  • すると、璽書で召された公孫淵はついに兵を挙げて反し、遼隧で毋丘儉と戦った。長雨で遼水が増水していたため、魏軍は不利となって退却した。
  • 公孫淵はこの機に燕王を称し、年号を紹漢と改め、百官を置き、鮮卑単于に印綬を仮授して辺民を誘い、北方を騒がせた。

蜀張后の死と九月の大水

  • 蜀では張皇后が亡くなった。
  • 九月、魏では冀・兗・徐・豫の諸州が大水に見舞われた。

毛皇后の死

  • 西平郭夫人が明帝に寵愛されるようになると、毛皇后への愛情は衰えた。
  • ある日、明帝が後園で近臣だけの宴を開いた際、郭夫人が皇后も呼ぶよう求めたが、明帝は許さず、しかも左右にそのことを漏らすなと命じた。
  • ところが翌日、毛皇后がその宴の楽しさを尋ねたため、明帝は側近が秘密を漏らしたと怒り、多数を殺した。
  • さらに庚辰の日、毛皇后に死を賜った。ただし諡は悼とされた。
  • 癸丑、愍陵に葬り、その弟毛曾を散騎常侍に移した。

十月 郊祀制度の整備

  • 十月、高堂隆の議を受け、洛陽南の委粟山に圓丘を築くことになった。
  • 詔では、漢初以来、秦の滅学の後遺症もあって郊祀制度に欠陥があり、長く正しい禘礼が行われてこなかったとした。
  • そこで曹氏の系譜は有虞に出るとして、圓丘には始祖虞舜を配し、方丘には舜妃伊氏を配すること、南郊では皇天の神に武帝を、北郊では皇地祇に武宣皇后を配することを定めた。

呉 廬江内応未遂

  • 廬江の主簿呂習がひそかに呉へ兵を求め、城門を開いて内応しようとした。
  • 孫権は衛将軍全琮と前将軍朱桓らを派遣したが、到着前に計画が発覚し、呉軍は引き返した。

諸葛恪の山越平定策

  • 諸葛恪は丹陽に至ると、隣接する各地域の長吏に文書を送り、山越の出没地帯ごとに境界防備を固めさせ、帰順した平民は屯住させた。
  • 一方で諸将を険阻の地に配置して深く兵を入れ、ただ柵を修理して正面衝突は避け、山民の田が熟すたびに出て刈り尽くす策を取った。
  • 旧穀は尽き、新穀も収穫できず、平民屯田も物資流入を断たれたため、山民は飢えて次第に降伏した。
  • 諸葛恪は、出てきた者は慰撫して外県へ移住させ、疑って拘束するなと改めて命じた。
  • しかし臼陽長胡伉は、降人周遺を昔の悪民として縛送したため、諸葛恪は命令違反として胡伉を斬り、見せしめにした。
  • 人々は、官が求めるのはただ山から出ることだけだと知り、老幼が連れ立って続々と出降し、一年で人数は当初の予定どおりに達した。
  • 諸葛恪はそのうち一万人余りを自らの配下とし、残りは諸将に分け与えた。孫権は功を賞して、諸葛恪を威北将軍・都郷侯とし、廬江の皖口へ移した。

長安の銅器移送と洛陽の造園

  • この年、長安の鐘架・槖佗・銅人・承露盤を洛陽へ移そうとしたが、承露盤は途中で折れ、その音は数十里先まで響いた。
  • 銅人は重すぎて運びきれず、霸城に残された。
  • そこで大量の銅を集めて別に銅人二体を鋳造し、「翁仲」と名づけて司馬門外に並べた。
  • さらに黄龍・鳳凰の銅像も作り、内殿前に置いた。
  • 芳林園の西北に土山を築き、公卿や群僚にまで土を担わせ、松竹・雑木・奇草を植え、山禽や獣を放して庭園化した。

董尋・高堂隆・衛覬らの激しい反対

  • 司徒府の軍議掾董尋は、建安以来の戦乱で家々は人を失い、孤老だけが残るほどなのに、いま宮室が狭いとしても農時を妨げてまで拡張すべきではなく、まして黄龍・鳳凰・九龍・承露盤のような無益の物は聖明の君の事業ではないと諫めた。
  • また、公卿に土を運ばせて衣冠を汚し、国家の威光を損なうのは不当だと述べ、自分が死を覚悟していること、残された八人の子は陛下に託すとまで言った。
  • 明帝は「董尋は死を恐れぬのか」と言い、主務官が逮捕を奏請したが、結局は罪に問わなかった。
  • 高堂隆も、小人が秦漢の奢侈を語って聖心を揺さぶり、亡国の器物を集めて徳政を損なっていると批判したが、明帝は聞かなかった。
  • 高堂隆はさらに、今の呉・蜀は辺境の小賊ではなく帝号を称して中国と覇を争う大敵であり、もし彼らが節用・軽税・用賢を行っていると聞けば大いに憂えるはずだし、反対に奢侈無道で民が疲弊しているなら好機とみるはずだ、魏もまた同じ尺度で省みるべきだと論じた。
  • 国は疲れ、民には蓄えがなく、禄賜も削られ、工事費捻出のために牛肉の小賦まで重なっている実情を挙げ、続く土木は国家を危うくすると強く戒めた。
  • 明帝はこの奏を見て、中書の近臣に「これを見ると朕も恐ろしくなる」と語った。
  • 尚書衛覬も、世の議論は耳に心地よいことばかり言い、政治では陛下を堯舜に、征伐では敵を狸鼠のように軽く見るが、現実は三国鼎立で戦国同然だとした。
  • 武帝曹操の頃は後宮も食事も衣服も質素で、それが天下平定と子孫への遺福につながったのだから、今こそ収入を量って支出を制し、承露盤のような無益の物をやめるべきだと諫めた。

士卒への配偶者確保策をめぐる張茂の諫言

  • 当時、すでに嫁していた吏民の妻でも取り上げて士卒に与え、生口で贖うことを許す詔が出され、姿や髪の美しい者はさらに掖庭へ入れられた。
  • 太子舎人張茂は、百姓も吏民も天子の子であり、その妻を奪って別人に与えるのは兄の妻を弟に与えるようなもので、父母として偏りがあると批判した。
  • 富者は家産を傾け、貧者は借財して奴婢を買い、妻を贖おうとしているが、実際には士の配偶者確保を名目に、醜い者だけを兵士へ回し、美しい者は掖庭に入れていると暴いた。
  • いま数十万の軍を養うだけでも天下の租税が不足しがちなのに、定員外の後宮、外戚への横な賞賜、工芸玩弄や承露盤に費やせば、敵を喜ばせるだけだと述べた。
  • 明帝は聞き入れなかった。

高堂隆の臨終上疏

  • 高堂隆は病が篤くなると、口述で最後の上疏を書かせた。
  • そこでは、夏桀・殷紂のような暴君も同じ天子でありながら滅び、湯武がこれに代わったのは徳によるのであって、天下は君主一人の私物ではないと説いた。
  • さらに、黄初年間に燕が鷹の雛を育てたという異変を引き、宮中近くに鷹揚の臣が起こる兆しとして、諸王を諸国に出して兵を持たせ、帝室を助けさせるべきだと主張した。
  • 明帝は自筆の詔で深く慰労したが、ほどなく高堂隆は死去した。
  • 後の陳寿は、高堂隆は学識明らかで君主を正そうとする志と忠誠は立派だったが、黄龍を理由に正朔改定を強く主張した点は、学識を超えて思い込みが走りすぎた面もあると評した。

浮華の士の抑制と考課法論争

  • 明帝は浮華の士を嫌い、吏部尚書盧毓に、名声だけの者は地面に描いた餅のように食べられない、と述べた。
  • 盧毓は、名声だけで異才を得ることはできなくとも、少なくとも常人の善悪の目安にはなる、だから名そのものを憎むべきではないと答えた。
  • また、今は考績法が廃れ、毁誉で進退が決まるため、真偽虚実が混じっていると指摘した。
  • 明帝はこの言を容れ、散騎常侍劉邵に考課法の制定を命じた。劉邵は都官考課法七十二条と概要書を作り、百官に議論させた。
  • 司隷校尉崔林は、考課の文は周官にすでに備わっていたが、結局は制度の有無よりも、それを担う人次第だとした。軍旅多事の現状で細かな考課を整えても、本末転倒だと論じた。
  • 黄門侍郎杜恕は、州郡での親民官の選抜・昇進に功績を重んじる実務的な考課は必要だが、公卿や内職の大臣にまで事務的な課法を機械的に当てはめても、道を論じ、欠を補う本来の役割は測れないと述べた。
  • 司空掾傅嘏も、まず官職配置と民政の本を正し、その上で循名責実すべきで、国政の大綱が立たないまま末節の考課だけ先にしても賢愚は測れないとした。
  • 議論はまとまらず、結局この考課法は実施されなかった。

司馬光の論評

  • 司馬光はここで、人を用いるのが政治の要であり、人を知ることは聖賢にも難しいと論じる。
  • 毀誉に頼れば愛憎が競い、功績だけを見れば巧詐が起こる。結局の根本は、上に立つ者が至公至明であるかどうかに尽きるとした。
  • 経学・司法・財政・軍事など、それぞれの職に応じて実績を見るべきだが、最終判断は人主や長官自身の心でなされるべきで、事前に細則を尽くして有司へ丸投げすることはできないとした。
  • また、唐虞の考績と漢魏の考課は名は同じでも実が違い、京房や劉邵の案は本を捨てて末に走ったものだと評した。

選挙論 衛臻・蔣済・盧毓

  • 以前、右僕射衛臻が選挙を掌っていた頃、中護軍蔣済は、韓信や呂尚のように、身分の低い者でも抜擢して王公に登らせうるのだから、形式的な試験を経ずに用いてもよいではないかと書き送った。
  • 衛臻は、草創の世の牧野や高祖の時代を、成康や文景の承平にたとえることはできず、常道を外れた抜擢を奨励すれば、天下がみな奇を求めて走り出すと答えた。
  • 盧毓は人物評価でも選挙でも、まず性行を見て、その後に才能を見た。
  • 黄門郎李豊がその理由を問うと、盧毓は、才は善をなすための器であり、才があるのに善をなせない者は、その才が器に適っていないのだと答え、李豊もこれに服した。