春 呉の大銭鋳造
- 春、呉は大銭を鋳造し、一枚で五百文に当てるとした。
三月 張昭の死
- 三月、呉の張昭が八十一歳で死去した。
- 張昭は容貌も態度も厳格で威厳があり、孫権以下、呉の全国人がその存在を畏れていた。
夏四月 蜀後主の遊覧
- 蜀の後主劉禅は湔に至り、観阪に登って汶水の流れを眺めた。
- 諸葛亮の死後、こうした遊覧を止める者はなく、十日ほどして帰還した。
武都氐の降附
- 武都の氐族である苻健が蜀への降伏を願い出た。
- その弟は従わず、別に四百戸を率いて降った。
五月 董昭の死
冬十月 明帝の洛陽帰還
甲申 彗星と高堂隆の再諫
- 甲申の日、大辰に彗星が現れ、さらに東方にも彗星が見えた。
- 高堂隆は上疏し、帝王が遷都や都城建設を行うときは、まず天地・社稷の神位を定め、宮室を造るにも宗廟・倉庫を先にし、居室は後にすべきだと述べた。
- ところが現状では、圜丘・方沢・南北郊・明堂・社稷の神位も未整備で、宗廟制度も礼にかなっていないのに、居室ばかり飾り立て、士民は生業を失い、宮中費用は軍国費とほぼ同じだとまで世人に言われていると批判した。
- 『書経』の句を引いて、天の賞罰は民心に従うのであり、唐虞大禹の質素を慕い、桀・紂の奢侈を戒めるべきだと説いた。
- 明帝は高堂隆のたび重なる切諫を不快に思ったが、侍中盧毓が、賢君は臣の直言をこそ求めるのであり、自分たちが高堂隆に及ばないのはまさにその点だと取りなしたため、怒りを解いた。
十二月 陳羣の死と評価
- 十二月、潁陰靖侯陳羣が死去した。
- 陳羣は前後してたびたび得失を論じる上封事を出したが、その草稿は毎回破棄していたため、当時の人も子弟も内容を知らなかった。
- そのため、表向きには位にありながら黙していると批判する者もいたが、のち正始年間に群臣の上書が編纂されると、陳羣が多くの諫言をしていたことが明らかになり、人々は感嘆した。
- 袁子は、楊阜のように面と向かって激しく責めるのは直ではあっても忠とまでは言いがたく、陳羣のように君主の非を外へ漏らさず、密かに幾度も諫めるのが長者の道だと論じた。
乙未 明帝の許昌行幸と王昶の推挙
- 乙未、明帝は許昌へ行幸した。
- その際、公卿に才徳兼備の人物を一人ずつ推挙させ、司馬懿は兗州刺史王昶を推薦した。
- 王昶は慎み深い人柄で、兄の子に黙・沈、自分の子に渾・深と名づけ、名に恥じぬよう戒めた。
- その教戒では、早熟は早滅につながり、松柏のように晩成してこそよい終わりを得るとし、屈することで伸び、譲ることで得、弱さを保って強くなることを説いた。
- また、毀誉は愛憎のもとであり、人から非難されたときはまず自分を省みよ、正しければ怨むな、誤りなら害はない、と子弟を戒めた。