正月 魏の人事と郭太后の死
- 春正月、魏では大将軍の司馬懿が太尉に任じられた。
- まもなく皇太后郭氏が没した。明帝は甄后の死の経緯をたびたび郭太后に問いただしており、その心労が死を早めたとみられた。
蜀 楊儀の失脚と自殺
- 蜀では、楊儀が魏延を討った功を頼みに、諸葛亮の後を継いで政務を執るのは自分だと考えた。
- しかし諸葛亮は生前、楊儀が偏狭で感情的だとして重用を避け、後任には蔣琬を考えていた。楊儀は成都に戻って中軍師となったが、実権を与えられなかった。
- 楊儀は、自分は蔣琬より年功も実務経験も上だと不満を募らせ、公然と怨み言を口にした。人々はその発言の過激さを恐れて近づかなかったが、費禕だけは見舞って慰めた。
- その際、楊儀は「諸葛亮の死後、もし軍を率いて魏に降っていたら、ここまで落ちぶれなかっただろう」と悔恨を漏らした。費禕はこれを密かに後主へ報告した。
- 後主は楊儀を庶民に落として漢嘉郡へ流したが、楊儀はさらに激しい口調で誹謗の上書を送り、ついに郡で逮捕され、自殺した。
三月 郭后の葬儀
夏四月 蜀の政務再編
- 蜀では蔣琬が大将軍・録尚書事となり、費禕がその後任として尚書令に就いた。
明帝の大規模造営と群臣の諫言
- 明帝は土木事業を好み、許昌宮に続いて洛陽宮の整備を進め、昭陽殿・太極殿・総章観などを造営した。
- 労役はやまず、農業に従事すべき民まで工事に取られたため、司空陳羣は、乱後の人口は激減しており、今は一郡ほどの民力しかないのに、辺境にはなお戦争があり、災害でも起これば国家の大患になると諫めた。
- さらに、劉備が成都から白水まで駅舎を多数設けて民を疲弊させたことを曹操が見抜いていた例を挙げ、今の魏の土木もまた呉・蜀の望むところだとした。
- 明帝は、王業と宮室は並び立つべきで、賊を平定した後に守備施設をやめるなら、今さら工事だけやめるわけにはいかないと答えた。
- 陳羣は、蕭何が未央宮を築いたのは戦後の急務であって、いまのように敵が未平定の時とは違うと重ねて説き、漢明帝が鍾離意の諫めを容れて一時建築をやめた故事も引いて、君主が一人の臣を憚るのではなく、百姓のために思いとどまるべきだと述べた。
- その結果、明帝は多少は工事を縮小した。
後宮の肥大化への批判
- 明帝は後宮を寵愛し、婦人官の待遇を百官になぞらえるほど高くし、貴人以下の女官も数千人に及んだ。さらに、文字を扱える女官六人を女尚書として起用し、外部からの奏事の取り次ぎや裁可の伝達まで担わせた。
- 廷尉高柔は、漢の文帝が小さな台の造営すら惜しみ、霍去病が匈奴征討を優先して邸宅建設に気を回さなかったことを引き、いまは北方の敵だけでなく国費の損耗も深刻だとして、必要最小限の施設だけ残して工事をやめるよう求めた。
- また、后妃の定員は礼制上すでに十分多いのに、実数はそれを超えているらしく、皇嗣が少ない原因もそこにあるかもしれないとして、徳ある者だけを残し、他は帰郷させて精神を養うべきだと説いた。
- 明帝は、その意見をよく受け止めたと返答した。
狩猟禁制と農業被害
- 当時は狩猟禁制が厳しく、禁地で鹿を殺すと死罪・没収、告発者には厚賞という法があった。
- 高柔は再び上疏し、ただでさえ民が工事に駆り出されて耕作者が減っているのに、鹿の群れが田畑を荒らして収穫が激減していると訴えた。滎陽周辺では数百里にわたり実りがほとんどない年もあった。
- 兵事や凶作に備えるには民間で鹿を捕らえさせるほかなく、禁令撤廃こそ民を救う道だと述べた。
北芒の造成計画と辛毗の反対
- 明帝は北芒を平らにして、その上に高台を築き、孟津まで見渡せる観望施設を作ろうとした。
- 衛尉辛毗は、天地の理は高きは高く低きは低いことで成り立っており、それを逆転させるのは不自然だと反対した。さらに洪水時に丘陵を削ってしまえば防ぎようがないとも述べ、明帝は計画をやめた。
楊阜の繰り返しの諫言
- 少府楊阜は、明帝は武帝曹操の開拓した基業と文帝の継承した統治を守る立場にあり、まず古の聖王の節倹に学び、桓帝・霊帝の放縦を反面教師にすべきだと説いた。
- 呉・蜀が未平定で軍旅が外にある今、造営は質素にとどめるべきだと上疏し、明帝は穏やかな詔で応じた。
- しかし楊阜はさらに、堯・禹の質素、桀・紂・楚霊王・秦始皇の奢侈と滅亡の例を列挙し、人民の力を量らず耳目の欲に従えば国は亡ぶと強く警告した。
- 自ら棺に近づき沐浴して重い処罰を待つ覚悟だとまで書き、明帝はその忠誠に感じて自筆で返書した。
服飾と宮中秘事をめぐる楊阜の剛直
- 明帝が礼にかなわない帽子と半袖姿でいたとき、楊阜はどの礼制に基づく服装かと問い、明帝は答えられなかった。以後、そのような服装では楊阜に会わなくなった。
- 楊阜はまた、寵愛されない宮人を減らすよう求め、後宮の人数を調べようとしたが、御府の吏が機密を理由に答えなかった。
- 楊阜は「国家の機密を九卿に隠し、小吏には明かすのか」と怒って鞭打ち、明帝はいっそう楊阜を畏れた。
蔣済・王基の意見
- 散騎常侍蔣済は、越王句践や燕昭王のように、将来の用に備えて民力を養い、恥を雪ぐために国力を整えた先例を挙げ、明帝ほどの才略があれば、土木より討賊に専念すべきだと説いた。
- 中書侍郎王基も、民は舟を載せも覆しもする水のようなものだとし、いまの酷使は東野子が馬力を使い尽くしてなお走らせるようなものだと述べた。
- さらに、賈誼の薪の上に寝る譬えを引き、外敵未滅のまま強将が辺境に兵を擁する状態は後世の憂いになると警告した。
- 明帝はいずれも用いなかった。
越権捜査と衛臻・孫礼
- 宮殿工事を監督する殿中監が、独断で蘭台の令史を逮捕した。
- 右僕射衛臻は、官の越権を取り締まるべきだと奏請したが、明帝は「宮殿工事の完成が最優先なのに、なぜ追及するのか」と不満を示した。
- 衛臻は、越権は勤勉の問題ではなく官制を壊す害のほうが大きいと答え、校事などの取り締まりも近ごろはみな同じだと述べた。
- 尚書孫礼も工事停止を強く求め、明帝が民役停止を命じると、工事監督は一か月の猶予を請うたが、孫礼は再奏を待たず、詔を掲げてその場で工事を止めた。明帝はその意気を称え、罪に問わなかった。
- 明帝は諫言を十分に採用はしなかったが、概して諫臣を優遇し、意見を言わせた。
七月 崇華殿焼失と高堂隆の諫め
- 秋七月、洛陽の崇華殿が焼失した。
- 明帝が侍中で太史令を兼ねる高堂隆に災異の意味と祈禳の可否を尋ねると、高堂隆は、火災は上が奢侈で下も節度を失ったしるしであり、高殿の焼亡は君主が宮室装飾に心を奪われ、民の困窮を顧みないためだと答えた。
- 明帝が、漢武帝が柏梁台の火災後にさらに宮殿を建てて厭勝としたのはどうかと問うと、高堂隆はそれは夷狄の巫術であって聖王の教えではないと否定した。
- 今なすべきは、民役をやめ、焼け跡を清めるだけにとどめ、新たな造営をしないことだと説いた。
八月 曹芳・曹詢の封建と九龍殿
- 八月、皇子の曹芳を斉王、曹詢を秦王に立てた。
- 明帝には実子がなく、二人を養子としていたが、その出自は宮中でも秘され、曹芳は任城王曹楷の子ではないかと噂された。
- 丁巳、明帝は洛陽に帰還した。
- まもなく崇華殿の再建を命じ、これを九龍殿と改めた。穀水を引いて殿前を流し、玉井や飾り欄干を設け、蟾蜍が水を受け、神龍が吐き出す仕掛けを施した。
- 博士馬鈞には司南車や、水力で動くからくり百戯を作らせた。
陵霄闕の鵲巣と高堂隆の再諫
- 陵霄闕の建築を始めたところ、その上に鵲が巣を作った。
- 明帝が高堂隆に意味を問うと、高堂隆は『詩』の句を引き、鵲の巣を他の鳥が占めるのは、この宮殿が完成しても陛下自身は住めず、他姓がこれを支配する兆しだと答えた。
- そして、殷の太戊・武丁が災異を戒めて福に転じた例を挙げ、徳政に立ち返ればさらなる盛世も望めると説き、明帝も顔色を改めた。
苛酷な工事督責と王粛の上疏
- 明帝は気性が厳しく、宮殿工事に期限を設け、間に合わぬ者は口に報告を終えぬうちに処刑されるほどであった。
- 散騎常侍で秘書監の王粛は、現在の工事人員は三、四万人に及ぶが、九龍殿だけでも居住には足り、太極殿以前の大工事だけに限定して、一万人ずつ交代勤務にすれば、労役にも終わりが見えて民も怨まないと説いた。
- また、期限を明示した以上は必ず守って解放し、約束を違えないことが国家の大宝だとした。
- さらに、急に呼び出してその場で斬る刑は、民から見れば法に基づく処罰ではなく君主の激情に見えるので、必ず官に付して公平に処断し、宮中で人を殺して疑惑を招くべきではないと諫めた。
中山恭王曹袞の遺言
- 中山恭王曹袞は病が重くなると、婦人の手の中で死ぬことをよしとせず、東堂を急造させてそこへ移った。
- 世子には、幼くして国主となる者は楽しみだけ知って苦しみを知らず奢りやすいので、兄弟に悪行があれば膝を進めて諫め、それでも改まらねば母に知らせ、なお改まらねば国土を返上してでも禍を避けるべきだと教えた。
- ただし、細かな過失は覆い隠してやれとも言い残した。
- 冬十月、曹袞が薨じた。
十一月 明帝の許昌行幸
幽州の対鮮卑工作
- この年、幽州刺史王雄は勇士韓龍を使って鮮卑の軻比能を暗殺した。
- これ以後、鮮卑諸部は離散して互いに争い、強い者は遠くへ退き、弱い者は服属を願い出たため、北辺は安定した。
張掖の石図と「大討曹」
- 張掖の柳谷口で水があふれ、霊亀に似た図様を負う宝石や、石馬七体、鳳凰・麒麟・白虎・犠牛・璜玦・八卦・列宿・孛星・彗星などをかたどった異様な石文が現れた。
- そこには「大討曹」と読める文字もあった。朝廷はこれを瑞祥として全国に布告した。
- 任県令于綽はこの文様を携えて、学識で知られる張臶に見解を求めた。
- 張臶は密かに、神意は未来を示すものであり、すでに滅んだ漢を再興するしるしではない、これは今後の変動と将来の王朝交替を示すものだと語った。
魏と呉の交易
- 明帝は使者を派遣して、呉から珠・璣・翡翠・玳瑁を馬と交換した。
- 呉主孫権は、自分には不要な品で馬が得られるなら惜しくないとして、求めに応じた。