春二月〜三月 諸葛亮の最後の北伐と山陽公の死
- 二月、諸葛亮は十万の大軍を率いて斜谷から出撃し、呉にも同時挙兵を促した。
- 三月庚寅、山陽公、すなわち漢の献帝が死去した。禅譲後十四年、五十四歳であった。明帝は喪服を着して発喪し、己酉に大赦を行った。
夏四月〜五月 疫病・火災と渭水対陣
- 四月、大疫病が起こり、崇華殿が焼失した。のちに再建して九龍殿と改め、谷水を引いて玉井や欄干を設けた。
- 諸葛亮は郿に至り、渭水南岸の五丈原に屯した。司馬懿は渭水を渡って背水の陣を築き、対抗した。
- 司馬懿は、もし諸葛亮が武功の山沿いを東へ出たなら憂うべきだが、五丈原に上るなら対処できると見ていた。諸葛亮は果たして五丈原に屯した。
- 雍州刺史郭淮は、諸葛亮は必ず北原を争うから先に押さえるべきだと進言した。多くは不要と見たが、郭淮は、そこを奪われれば隴道が絶たれ民夷が動揺すると説き、司馬懿はこれを採って郭淮を北原に置いた。工事が未完成のうちに蜀軍が来たが、郭淮は迎撃して退けた。
- 諸葛亮は以前の出兵で兵糧不足に苦しんだ経験から、今回は兵を分けて屯田を行い、渭水沿いの住民の中に農耕者を交えて長期駐屯の基礎を築いた。軍は私掠をせず、百姓も安堵した。
呉の三方面侵攻
- 五月、呉主は巣湖口に入り、十万を号して合肥新城に向かった。
- さらに陸遜・諸葛瑾が一万余で江夏・沔口から襄陽方面へ、孫韶・張承が淮水から広陵・淮陰方面へ進んだ。
魏の防衛方針
- 六月、満寵は新城救援のため諸軍を率いようとしたが、殄夷将軍田豫は、呉軍は新城そのものより魏の大軍を誘い出すことを狙っているのだから、まず城攻めでその鋭気を挫かせ、疲れたところを討つべきだと主張した。
- 満寵は、東方の将兵が輪番休暇中で兵が分散しているため、中軍と休暇兵を呼び戻してから打つべきだと上表した。
- 散騎常侍劉劭は、先に歩兵五千・精騎三千を出して威勢を見せ、騎兵で退路と糧道を脅かせば、賊は大軍到来を聞いて自壊すると進言した。明帝はこれに従った。
- 満寵は新城守備を寿春方面へ引こうとしたが、明帝は、光武帝が略陽を守らせて隗囂を破った例や、先帝が合肥・襄陽・祁山を固めた趣旨を引き、新城は争地であり捨てるべきでないとした。
- また西方では、征蜀護軍秦朗に歩騎二万を率いさせて司馬懿を助けさせ、司馬懿には堅く守って諸葛亮を疲れさせ、兵糧が尽きて退くところを追うよう命じた。
秋七月 明帝東征と呉軍退却
- 七月、明帝は龍舟で東征した。満寵は勇士を募って呉軍の攻城具を焼き、呉主の弟の子である孫泰を射殺した。
- 呉軍では病人も多く、明帝本軍到着前の数百里の段階で疑兵が先に来たとの報が入り、呉主は当初「皇帝は出てこない」と思っていたが、大軍接近を知ると退却した。孫韶も撤退した。
陸遜の撤兵術
- 陸遜の近習韓扁が上表を携えて呉主のもとへ向かったが、魏の斥候に捕えられた。諸葛瑾は、呉主がすでに帰還したことや、韓扁の捕縛で事情が敵に知られたこと、水位低下の不利を挙げて急退を促した。
- しかし陸遜は、魏軍はいまや呉主が帰ったと知って自分に専力してくる、しかも要害に配置しているので、こちらの将兵は動揺している、まず自軍を落ち着かせてから策を施すべきだとして、平然と葑や豆を植え、碁や射芸をして見せた。
- ひそかに諸葛瑾と計画を立て、瑾には舟船をまとめさせ、自分は全軍を襄陽城へ向けるよう装って魏軍を城防衛へ引きつけた。魏は陸遜の名を恐れて急ぎ引き返した。
- その間に諸葛瑾は船を退かせ、陸遜もゆっくり陣形を整えて船に向かい、白囲に至ると狩猟と称して周峻・張梁らを派遣し、江夏の新市・安陸・石陽を襲って千余人を斬獲して帰った。
車駕西還論と寿春での論功
- 群臣は、司馬懿がまだ諸葛亮と対峙中なので、西の長安へ行幸すべきだと勧めた。明帝は、孫権が退いた今、諸葛亮も胆を破られ、司馬懿の大軍で十分抑えられるから心配ないとして、寿春まで進んだ。
- 諸将の功を録し、封賞をそれぞれに与えた。
- 八月壬申、漢の孝献皇帝を禅陵に葬った。辛巳、明帝は許昌へ帰った。
五丈原対陣と諸葛亮の死
- 司馬懿は諸葛亮と百余日対峙した。諸葛亮はたびたび挑戦したが、司馬懿は出なかった。
- そこで諸葛亮は司馬懿に婦人の衣装を送って侮辱した。司馬懿は怒って出戦を請うたが、明帝は衛尉辛毗に節を持たせて軍師とし、戦いを抑えさせた。
- 姜維は諸葛亮に、辛毗が節を持って来た以上、敵はもう出てこないと言った。諸葛亮は、司馬懿は元から戦う気がなく、諸将に武を示すため戦いたいふりをしているだけだ、もし自分を制せるなら千里も上表などしないと見抜いた。
- 諸葛亮の使者が魏営に赴くと、司馬懿は軍事ではなく諸葛亮の起居・食事量・政務の繁簡ばかりを尋ねた。使者が「朝から晩まで自ら政務を見、二十杖以上の刑罰も自分で裁き、食事は数升にも満たぬ」と答えると、司馬懿は「食が少なく事が多い。長くはもつまい」と言った。
- 諸葛亮が重病になると、尚書僕射李福が見舞いに来た。別れた後、李福は改めて戻り、諸葛亮没後の国家の大計をたずねた。諸葛亮は、まず蔣琬がよく、その後は費禕が継げると答えたが、その次については答えなかった。
- その月、諸葛亮は軍中で死去した。
蜀軍の撤退と司馬懿の評価
- 長史楊儀は軍を整えて撤退した。民衆が司馬懿にこれを告げると、司馬懿は追撃した。姜維は楊儀に命じて旗を返し、太鼓を鳴らして反撃の構えを取らせたため、司馬懿は軍を収めて近づかなかった。なお諸葛亮生存を疑っていたのである。
- そのまま楊儀は陣を組んで谷へ入り、そこで初めて喪を発した。世人は「死せる諸葛、仲達を走らす」と言った。司馬懿は「生きている時のことは読めても、死は読めなかっただけだ」と笑った。
- 司馬懿は後で諸葛亮の営塁・処所を検分し、「天下の奇才だ」と嘆じた。
魏延と楊儀の争い
- 魏延は勇猛で兵をよく養い、出征のたびに一万人を率いて諸葛亮本隊と別道を進み潼関で合流したいと願っていたが、諸葛亮は常に許さず、魏延は自分の才が尽くされないと恨んでいた。
- 一方の楊儀は軍務・兵站・配置にきわめて敏で、軍政の実務はほとんど彼が取り仕切っていた。魏延は高慢で、人々は譲っていたが、楊儀だけは取り合わず、二人の関係は水火のようだった。諸葛亮は双方の才を惜しんで、どちらにも偏らなかった。
- かつて費禕が呉へ使したとき、呉主は「諸葛亮がいなくなれば、楊儀と魏延は必ず禍乱を起こす」と評したが、費禕は、二人の不和は私憤にすぎず、黥布や韓信のような反逆の心ではないと答えていた。
- 諸葛亮は病中、死後の退軍手順を楊儀・費禕らと定め、魏延を殿軍、姜維を次とし、魏延が従わないなら本隊が先に発てと命じていた。
- 諸葛亮死後、楊儀は喪を秘し、費禕を魏延のもとへ遣わして意向を探らせた。魏延は「丞相が死んでも自分がいる。棺だけを帰し、自分は諸軍を率いて敵を撃つ。どうして一人の死で天下の大事を止めるのか。自分が楊儀の指揮下で殿を務めるいわれはない」と言い、自ら進退の区分を作ろうとした。
- 費禕は「楊長史を説得してくる」と偽って脱出し、楊儀のもとへ戻った。魏延はすぐ後悔したが及ばなかった。
- 魏延は人を出して諸軍の動きを探らせると、楊儀らは諸葛亮の成規どおり次々退いていた。魏延は怒り、先回りして南へ帰り、道中の閣道を焼き断って楊儀の退路を絶った。双方が互いに叛逆と上表し、その日のうちに急報が成都へ飛んだ。
- 後主は董允・蔣琬に諮ると、二人はそろって楊儀を信じ、魏延を疑った。楊儀らは山を切り開いて道を通し、昼夜兼行で進んだ。
- 魏延は南谷口に拠って兵を出し、楊儀らを迎え撃った。楊儀側は何平を前に立て、何平は「公が亡くなってまだ体も冷えぬのに、おまえたちは何をするのだ」と叱った。兵士たちは魏延に理がないと知り、戦おうとせず散じた。
- 魏延は子ら数人とともに漢中へ逃げたが、馬岱が追って斬り、三族も誅された。蔣琬は宿衛諸営を率いて救援に向かったが、数十里進んだところで魏延死の報が届き、引き返した。
- 実際には、魏延は楊儀らを殺して自分が諸葛亮に代わり政権を握ろうとしたのであり、魏へ降る意図はなく、南へ向かって攻めたのもそのためだった。
蜀国内の反応と諸葛亮評
- 蜀軍は成都に帰還し、大赦が行われた。諸葛亮には忠武侯の諡が贈られた。
- かつて諸葛亮は後主に、自分には成都の桑八百株と薄田十五頃があり、子弟の衣食には十分で、余計な生業を営まず、死んでも家に余帛も外財も残さず陛下に負い目を作らないと述べていた。実際、その言葉どおりであった。
- 丞相長史張裔は、諸葛亮は遠い者を見落とさず賞し、近しい者にも情で罰を曲げず、功なくして爵を与えず、貴勢で刑を免さず、公平ゆえに賢愚を問わず皆が命を惜しまなかったと称えた。
- 陳寿も、諸葛亮は百姓を撫し、法度を示し、官職を簡約にして権宜を用い、公道を開いて私を交えなかった。忠義ある者は仇でも賞し、違法怠慢な者は親しくても罰し、真に服罪する者は重罪でも赦し、虚飾弁舌の者は軽くても誅したと評した。政治は厳しかったが怨みが少なく、治を知る良才で、管仲・蕭何に次ぐ者だとした。
廖立・李平の末路と習鑿歯の論
- かつて長水校尉廖立は、自分こそ諸葛亮の副たるべきだと自負し、閑散な職位を不満として怨謗を重ねたため、諸葛亮は彼を庶民に落として汶山へ流していた。
- 諸葛亮の死を聞くと、廖立は涙を流して「これで自分はついに異民族の服する側に終わる」と嘆いた。李平もまた病を発して死んだ。彼は諸葛亮が自分を再起用してくれる望みを抱いていたが、後任者にはその望みがないと悟ったからだという。
- 習鑿歯は、管仲に領地を奪われた伯氏ですら怨みを言わなかったことが称賛されるのに、廖立に涙を流させ李平を死に至らせた諸葛亮の処置は、それ以上に人を服させるものであったと論じた。水や鏡が公平だからこそ人は怨まないように、諸葛亮も私なく法を行ったから人心が服したのだと評した。
諸葛亮廟・蜀の後継・呉蜀関係
- 蜀の民は各地で諸葛亮の廟を建てようと求めたが、後主は許さず、人々は道端で私祭するだけだった。のちに習隆らが、墓に近い沔陽に一廟を建てて私祀をやめさせるべきだと上言し、後主はこれに従った。
- 後主は左将軍呉懿を車騎将軍・仮節として漢中を督させ、丞相長史蔣琬を尚書令として国事を総覧させた。ほどなく蔣琬に行都護・仮節・益州刺史を兼ねさせた。
- 新たに元帥を失い遠近とも動揺したが、蔣琬は際立った人物で、悲色も喜色も見せず、平時どおりの態度でいたため、人々はしだいに安心した。
- 呉では諸葛亮の死を聞き、魏がその衰えに乗じて蜀を取ることを恐れ、巴丘の守備を一万人増やした。救援の備えでもあり、場合によっては蜀を分割する意図もあった。蜀もまた永安の守りを増して不測に備えた。
- 蜀は右中郎将宗預を呉に派遣した。呉主が「東西は一家のようなものなのに、なぜ白帝の守りを増したのか」と問うと、宗預は「呉が巴丘を増兵し、蜀が白帝を増兵するのは、どちらも情勢上当然です。それを互いに問い責めることではありません」と答えた。呉主はその率直さを喜び、鄧芝に次ぐ礼遇を与えた。
呉の丹陽山越経営
- 呉の諸葛恪は、丹陽は山が険しく民が勇強で、従来の出兵では外県の平地民を徴発できるだけで、深山の山越を尽くは制圧できないと見ていた。
- そこで三年あれば甲士四万を得られるとして、自ら丹陽太守となって現地統治を行いたいと繰り返し求めた。
- 多くの人は、丹陽は呉郡・会稽・新都・番陽と連なる広大な山地で、住民は城邑や官長に服したことがなく、古来より山林に逃れて武を好み、銅鉄も産して自製の甲兵を持つため、制御は困難だとした。
- 父の諸葛瑾も、事は結局そこまで達成できまいと嘆き、「恪が大いに家を興さねばよいが、さもなくば一族を危うくするだろう」と言った。
- しかし諸葛恪は必勝を強く主張し、呉主はついに彼を撫越将軍・丹陽太守に任じ、その計画を実行させた。
冬 地震と潘濬帰還
- 十一月、洛陽で地震があった。
- 呉の潘濬は数年にわたって武陵蛮を討ち、多数を斬獲した。これ以後、諸蛮は衰え、一帯は安定した。
- 十一月、潘濬は武昌に帰還した。