資治通鑑魏紀四 烈祖明皇帝 青龍 元年 233年

春正月〜二月 青龍出現と改元

  • 正月甲申、摩陂の井戸に青龍が現れた。
  • 二月、明帝は摩陂に行ってこれを観覧し、年号を青龍と改めた。以後、摩陂は龍陂とも呼ばれた。

呉と公孫淵の結盟

  • 公孫淵は校尉宿舒・郎中令孫綜を呉へ送り、臣下として仕えたいと表明した。
  • 呉主は大いに喜び、そのために大赦を行った。
  • 三月、呉主は太常張弥・執金吾許晏・将軍賀達に兵一万と金宝・珍貨・九錫の器物を持たせ、海路で遼東へ送り、公孫淵を燕王に封じた。
  • 顧雍以下の大臣はみな、公孫淵は信用できず、厚遇しすぎだとして反対し、使者の護送程度にとどめるべきだと諫めたが、呉主は従わなかった。
  • 張昭も、公孫淵は魏の討伐を恐れて援助を求めてきただけで本心ではなく、もし魏に帰順し直せば呉の使者は帰れず天下の笑いものになると諫めた。
  • 呉主は怒って刀を抜き、群臣の前で自分を辱めるのかと張昭を責めた。張昭は、太后の遺命により忠言を尽くす義務があるとして泣きながら応じ、呉主も対泣したが、結局使節派遣は中止しなかった。
  • 張昭は病と称して朝廷に出ず、呉主がその門を土で塞いでも、張昭は内側からも塞いで対抗した。後に呉主が自ら出向いてようやく和解した。

魏の事件

  • 五月、北海王曹蕤が死んだ。
  • 閏月朔、日食があった。
  • 六月、洛陽宮の鞠室が焼失した。

鮮卑軻比能と歩度根

  • 鮮卑の軻比能は、塞内にいた歩度根を誘い、姻戚関係も結んで取り込んだ。歩度根はその部落を陘北へ移そうとした。
  • 并州刺史畢軌は、外には軻比能を威圧し、内には歩度根を鎮めるとして、命令を待たず出兵を願い出た。明帝は、歩度根はすでに軻比能に誘われ疑心を抱いているから、塞を越え、句注を過ぎるなと戒めた。
  • しかし勅書が届く前に畢軌はすでに陰館に進み、将軍蘇尚・董弼を派遣して追撃した。両軍は楼煩で戦い、蘇尚・董弼は戦死した。
  • その結果、歩度根と泄帰泥の部落はみな塞外へ叛出して軻比能に合流し、国境を侵した。明帝は秦朗に中軍を率いさせて討たせた。
  • 軻比能は漠北へ逃れ、泄帰泥はその部族を率いて魏に降った。歩度根はまもなく軻比能に殺された。

公孫淵、呉使を殺す

  • 公孫淵は呉が遠く頼みにしがたいと知ると、張弥・許晏らを斬り、その首を魏へ送ったうえ、兵糧・資財・珍宝をすべて奪った。
  • 冬十二月、魏は公孫淵を大司馬・楽浪公に封じた。

呉主の遼東出兵論

  • 呉主は公孫淵の変心に激怒し、老年にいたってこんな小鼠のような者に翻弄されたと嘆いて、自ら海を渡って討とうとした。
  • 陸遜は上疏し、曹操・劉備・関羽という当世の雄をすでに破った陛下が、今さら小さな怒りで万乗の身を危険な海上に置くのは理解できないと諫めた。強敵はなお近くにおり、遼東遠征は大計を損なうと説いた。
  • 薛綜も、薛広徳が楼船行幸を止めた故事を引き、水火の危険は帝王の渡るべきものではないと述べた。遼東は寒瘠で守る益もなく、海上は風波・瘴気・脚気の危険も大きいと論じた。
  • 陸瑁も、越海して馬を求めたのは本来目前の急を救うためであり、それなのに本を捨てて末を追うのは敵の望むところだと諫めた。兵を三分して上陸・守船・運糧に分ければ戦力は薄まり、山越の蜂起や魏の付け込みも懸念されるとした。
  • 重ねて陸瑁は、漢の文帝ですら南越王尉佗を遠征せず諭告で済ませたと引き、今はなお中原が安定していないのだから遼東を先にすべきでないと説いた。
  • 呉主はついに遠征を思いとどまった。

張昭との和解

  • 呉主はたびたび張昭に使者を送り、謝意を伝えたが、張昭は病を理由に起きなかった。
  • 呉主は自らその門前に来て呼びかけ、門を焼いて脅したが、張昭はなお出なかった。やがて火を消させて待ち、張昭の子らが支えて出てくると、呉主は車に載せて宮中へ迎えた。深く自己を責め、以後張昭もやむなく朝会に出た。

玄莬での呉使残党の脱出

  • 張弥・許晏らが遼東に着いた当初、公孫淵は呉の吏兵を分散し、その一部の秦旦・張羣・杜徳・黄強ら六十人を玄莬に置いていた。
  • 彼らは四十日あまり民家に分宿し、そこで「このままでは囚虜のように死ぬだけだ。一時に城を焼き長史を殺して国辱を雪ぎ、その後に死のう」と密約した。
  • しかし決行日の昼、郡中の張松が告発し、太守王贊は城門を閉ざして備えた。秦旦・張羣・杜徳・黄強らは城を越えて逃走したが、張羣は膝の疽が重く、山中で進めなくなった。
  • 杜徳は見捨てず看病し、秦旦・黄強だけを先に句麗へやった。二人は句麗王位宮とその主簿らに、呉主の詔書と賜物が遼東に奪われたと語って支援を求めた。
  • 位宮らはこれを喜んで受け入れ、二十五人の随員をつけて秦旦らを呉へ帰し、呉に臣従を表明し、貂皮・鶡鶏皮を貢いだ。呉主は秦旦らの苦難を壮とし、みな校尉に任じた。

合肥新城・六安方面の戦い

  • この年、呉主は新城を囲もうとしたが、水辺から遠いため二十日余りも上陸をためらった。
  • 満寵は、呉主は合肥の移城策を知って必ず誇示のために上陸すると見抜き、歩騎六千を肥水に伏せた。呉主が実際に上陸して兵威を示すと、伏兵が急襲し、斬首数百、溺死者も出た。
  • また呉の全琮が六安を攻めたが、これも落とせなかった。

蜀南中と木牛流馬

  • 蜀の庲降都督張翼は法の運用が厳格で、南夷の豪族劉胄が叛いた。諸葛亮は参軍馬忠を派遣して張翼と交代させた。
  • 周囲の者は張翼に、罷免される前に急いで帰って罪を受けよと勧めたが、張翼は、自分が召し返されるのは職にかなわぬからであっても、後任が来るまでは戦地にあって兵糧を整え、討伐の基礎を残すのが公務だとして怠らなかった。
  • 馬忠はその準備を利用して劉胄を破り、これを斬った。
  • 諸葛亮は農事を勧め軍備を整え、木牛・流馬を作って斜谷口へ米を運び、斜谷の倉庫も整え、民を休ませ兵を養った。注は流馬の寸法や構造まで詳述し、三年の蓄えを準備したとしている。