資治通鑑魏紀四 烈祖明皇帝 太和 六年 232年

春正月〜二月 呉太子登と魏の封国改定

  • 呉では少子の建昌侯孫慮が死去した。太子孫登は武昌から建業に入り、呉主に拝謁した。呉主は、長く離れて定省を尽くせなかったことを自ら述べ、また陸遜が忠勤で心配ないとして、太子を建業に留めた。
  • 魏では諸侯王の封国を改め、以後は郡をそのまま国とした。

平原懿公主の死と洛陽・許昌移幸論争

  • 明帝の愛娘の淑が死に、悲しみが非常に深かった。平原懿公主と追諡し、洛陽に廟を立て、南陵に葬った。甄氏の一族の黄を配合葬とし、列侯に追封して後継も立てた。
  • 明帝は自ら葬送に臨み、さらに許昌へ行幸しようとした。司空陳羣は、八歳の下殤には成人並みの礼は用いず、まして天子みずから送葬するのは古例にないと諫めた。さらに洛陽の宮を離れて東宮・西宮を移すことも、吉凶を避けるためだとしても無益で、公私の負担が大きいとした。
  • 少府楊阜も、文帝や武宣皇后の葬儀にも親臨しなかったのは国家を重んじたからであり、幼子にそこまでするべきでないと述べたが、明帝はいずれも聞き入れなかった。

三月〜四月 東巡と呉の遼東使節

  • 三月癸酉、明帝は東巡に出た。
  • 呉主は将軍周賀・校尉裴潜を海路で遼東へ送り、公孫淵に馬を求めさせた。

虞翻の諫言と流罪

  • 虞翻は性格が率直で酒席の失敗も多く、しばしば人を忤らせていた。かつて神仙の話題でも張昭に向かって「あれは死人であって、世に仙人などいない」と言い、呉主の怒りを積み重ねていた。
  • 遼東への使者派遣を聞くと、五溪蛮討伐は必要だが、遼東は遠く、来属させるだけでも精一杯なのに、財貨を費やして馬を求めても国家の利益にならず、成果も危ういと考えた。
  • しかし正面からは諫めず、その意見を書いて吕岱に示した。吕岱は取り上げず、虞翻は讒言で蒼梧の猛陵へ再び流された。

夏〜秋 魏の人事と公孫淵討伐未遂

  • 四月、明帝は許昌に至った。
  • 五月、皇子曹殷が死んだ。
  • 七月、董昭が司徒となった。
  • 九月、明帝は摩陂へ行き、許昌宮を修築し、景福殿・承光殿を建てた。
  • 公孫淵はひそかに魏へ背く心を抱き、しばしば呉と通じていた。明帝は田豫に青州諸軍を率いさせ海路から、王雄に幽州軍を率いさせ陸路から遼東を討たせた。
  • これに対し蔣済は、相争う大国でもない相手の叛臣を軽々しく討つべきでなく、討って抑えられなければかえって賊とするだけだと諫めた。得る利益も少なく、失敗すれば信を失うという意見だったが、明帝は従わなかった。
  • 田豫らの遠征は成果なく終わり、撤兵が命じられた。

成山での周賀捕殺

  • 田豫は、呉の使者周賀らが海路で帰るなら、年末の強風を避けて成山に寄るほかないと見抜き、命令を待たずに兵を成山に伏せた。
  • 周賀らが帰路に成山へ着くと、田豫はこれを襲い、周賀らを斬った。
  • 呉主はこれを聞いて初めて虞翻の先見を思い出し、交州から呼び戻そうとしたが、虞翻はすでに死んでおり、その遺骸だけが帰還した。

冬 曹植の死と劉曄失脚

  • 十一月、陳思王曹植が死去した。
  • 十二月、明帝は許昌宮に帰還した。
  • 侍中劉曄は、明帝に重んじられていたが、蜀討伐について、宮中では「伐つべし」と述べ、外廷では「不可」と唱えていた。話しぶりが巧みで、どちらにも理があるように聞こえた。
  • 中領軍楊暨は、劉曄が不可を主張すると聞いていたので、帝に蜀伐ちを諫めた。明帝が「劉曄は可と言っている」と明かし、召し出された劉曄はその場では何も言わず、後で「軍機は秘すべきで、人に漏らしてはならぬ」と皇帝を責めた。
  • 劉曄はさらに楊暨に、君主の威勢は大魚よりも扱いが難しく、直言だけでは足りないと諭した。ところが別の者が、劉曄は上意迎合の人だから、帝が本心と反対の問いをすれば正体が知れると進言した。明帝が試すと、果たして劉曄は上意に合わせていたことが露見し、以後疎んじられた。
  • 劉曄はついに発狂し、大鴻臚へ左遷され、憂死した。傅玄は、才智に偏って誠実さを欠いたことがその身を危うくしたと評している。

亷昭への批判

  • 尚書郎の亷昭は、細かな過失をあげつらって帝の歓心を買うことを好み、左丞曹璠や陳矯をも追及した。
  • 黄門侍郎杜恕は上疏し、国家が善政を行えないのは臣下が忠を尽くさぬからだけでなく、君主が臣下の力を十分に用いないからでもあると論じた。忠臣は必ずしも近親でなく、近習の愛憎が政治を歪めると批判し、周公や舜のように賢愚を明確に分け、君主自ら大臣と対話して能力を見極めるべきだと勧めた。
  • また、役所の出入りや請託を門番強化で禁じても本末転倒であり、派閥や縁故を断つ厳正な処罰こそ必要だとして、亷昭のような人間を重んずれば道理を背いて利に走る風が広がると警告した。
  • 杜恕は杜畿の子である。

陳矯・司馬懿・満寵

  • 明帝が急に尚書台の文書を見に行こうとしたとき、陳矯は跪いて「それは臣の職掌です。もし務めに堪えぬなら退けてください」と諫め、帝は恥じて引き返した。
  • 明帝が「司馬懿は社稷の臣といえるか」と問うと、陳矯は「朝廷の重望ではありますが、社稷の臣かは分かりません」と答えた。
  • 呉の陸遜が廬江へ進んだとき、諸論は急いで救うべきだとしたが、満寵は、廬江は兵が精強で持久できるうえ、呉軍は船を捨てて二百里も深入りしており、退路が空いているから誘い込むべきだと判断した。
  • 満寵は楊宜口に急行して待ち構え、呉軍はこれを聞いて夜のうちに退いた。
  • さらに満寵は、合肥は南を水に臨み、北の寿春から遠く、救援が難しいため、城内兵を西方三十里の険地へ移して新城を築くよう上疏した。
  • 蔣済は、これは天下に弱さを示し、賊の烽火を見て自ら城を壊すようなもので、淮北が守勢に追い込まれると反対した。
  • 満寵は重ねて、兵法では「形」を示して敵を誘うことが重要であり、あらかじめ城を移して敵を平地へ引き出すのは得策だと主張した。尚書趙咨もこれを支持し、明帝はついに許可した。