春二月 呉の五溪蛮討伐と衛温らの失敗
- 呉主は潘濬に節を仮し、吕岱とともに五万人を率いて五溪蛮を討たせた。武陵太守の衛旍は、潘濬が蜀の蔣琬とひそかに連絡していると訴えたが、呉主はこれを信じず、訴状をそのまま潘濬に見せ、衛旍を呼び戻して免官した。
- 衛温・諸葛直の遠征軍は一年余り海上行動を続けたが、疫病で兵の大半を失い、目的地の亶洲には到達できなかった。夷洲から数千人を連れ帰っただけで、功なしとして両名は誅された。
蜀の北伐開始
- 蜀では諸葛亮が李厳に中都護として漢中留府の事務を統括させ、このころ李厳は李平と改名した。
- 諸葛亮は諸軍を率いて再び魏に侵攻し、祁山を包囲した。兵糧輸送には木牛を用いた。
- 魏では大司馬の曹真が病み、明帝は司馬懿を長安に駐屯させ、張郃・費曜・戴陵・郭淮らとともに蜀軍を防がせた。
- 三月、曹真が死去した。
上邽・鹵城方面の攻防
- 司馬懿は費曜・戴陵に精兵四千を率いさせて上邽を守らせ、自らは主力を西へ出して祁山救援に向かった。張郃は兵を分けて雍・郿に置くべきだと主張したが、司馬懿は退けた。
- 諸葛亮は祁山包囲軍を残し、自ら上邽で司馬懿を迎え撃った。郭淮・費曜らが遮断を試みたが蜀軍に破られ、諸葛亮はその地の麦を大いに刈り取った。
- 両軍は上邽東方で対峙したが、司馬懿は険阻を頼んで守り、決戦を避けた。諸葛亮が退くと司馬懿はこれを追って鹵城まで進んだ。
- 張郃は、蜀軍は遠征しており兵糧も乏しいのだから、あえて深追いせず持久で制すべきだと説いた。しかし司馬懿は従わず、追撃してはみたものの山に登って陣を掘り、なお戦おうとはしなかった。
- 賈栩・魏平ら諸将はたびたび出戦を求め、「蜀を虎のように恐れては天下の笑いものになる」と迫ったため、司馬懿もこれを苦々しく思った。
夏五月 蜀軍勝利とその後の撤退
- 五月辛巳、司馬懿は張郃に命じて南囲の無当監何平を攻めさせ、自身も中道から諸葛亮に向かった。諸葛亮は魏延・高翔・呉班を出して迎撃させ、魏軍を大破し、甲冑と首級三千を得た。司馬懿は営塁に退いた。
- 六月、諸葛亮は兵糧が尽きたため退軍した。司馬懿は張郃に追撃を命じたが、木門で蜀軍の伏兵に遭い、矢を膝に受けて張郃は戦死した。
秋七月 曹植の上表
- 皇子の曹殷が生まれ、大赦が行われた。
- 黄初以来、諸侯王への法禁が厳しく、親族どうしでも音信が絶えていたため、東阿王曹植は上疏し、親族の礼を回復し、諸王が四時の慶弔を通わせられるよう求めた。あわせて、自分も京師で近侍の任につきたいという願いを詳しく述べた。
- 明帝は、禁絶は本意ではなく、矯正が過ぎて下役人が恐れてこうなっただけだと答え、有司に是正を命じた。
- 曹植は重ねて上疏し、異姓の臣ではなく宗室をこそ国家安定の支えとして重んずべきだと論じたが、明帝は丁重な返答を与えるだけで、実際に取り立てはしなかった。
八月 諸王入朝の命
- 明帝は、先帝が諸王を京都に置かなかったのは幼主と母后摂政の事態に備えたためであったが、自分は諸王と十二年会っていないとして、諸王・宗室公侯に嫡子一人ずつを翌年正月に入朝させるよう命じた。幼主・母后のある場合は旧制どおりとした。
李平失脚
- 諸葛亮の祁山遠征では、李平が後方で運糧を督していたが、長雨で補給が続かないことを恐れ、参軍の狐忠・督軍成藩に命じて諸葛亮へ退軍をうながす意向を伝えさせた。
- 諸葛亮がそれを受けて退くと、李平は一転して「兵糧は足りているのになぜ戻ったのか」と装い、さらに督運の岑述を殺して責任転嫁しようとし、後主にも「退軍は敵を誘うための偽装だった」と上表した。
- 諸葛亮は李平の前後の手紙や命令書を示して矛盾を明らかにし、李平は弁解できず謝罪した。諸葛亮はその過失を列挙して官を免じ、爵土を削って梓潼郡に流した。
- ただし李平の子の李豊はなお参軍として用い、諸葛亮は「君と父子のように漢室を助けようとしてきたのに、なぜ途中で志が違ったのか。深く考えよ」と諭した。
- また蔣琬・董允には、李平は腹に鱗甲を持つような人物で、うかつに触れてはならぬと思っていたが、まさか蘇秦・張儀のような反覆をここまで見せるとは思わなかった、と書き送った。
冬十月 呉の偽降策と王凌
- 呉主は中郎将孫布に偽って魏へ降るふりをさせ、揚州刺史王凌を誘い出そうとした。伏兵は阜陵に置かれた。
- 孫布は「道が遠く自力では行けないので兵を送って迎えてほしい」と王凌に伝え、王凌はその書を上申して救援兵を請うた。
- 征東将軍満寵はこれを必ず詐欺だと見抜き、兵を与えず、表向きは慎重に機を待つよう王凌への返書を作った。ちょうど満寵が入朝することになったため、留守役にも「王凌が兵を求めても与えるな」と命じて去った。
- その後、王凌は兵を得られず、ただ一人の督将に歩騎七百を率いさせて迎えに行かせたが、孫布が夜襲し、魏軍は半数以上を失った。
満寵と王凌
- 王凌はかねて満寵が老いて酒にふけるとして、更迭を求めていた。そこで皇帝は満寵を召そうとしたが、郭謀は、満寵は淮南で長年功績があり、呉も恐れているから、軽々しく外すべきでないと諫めた。
- 明帝は満寵を召して東方の事情を尋ねたが、体も健やかであり、結局は慰労してそのまま任地へ戻した。
年末の出来事
- 十一月晦日、日食があった。
- 十二月、華歆が死去した。
- 呉では大赦が行われ、翌年の改元を嘉禾とした。