資治通鑑魏紀三 烈祖明皇帝上之下 太和四年 230年
春 呉の夷洲・亶洲遠征
- 孫権は衛温・諸葛直に甲士一万人を率いさせ、海を渡って夷洲・亶洲を捜索させ、その住民を連れてきて人口を増やそうとした。
- しかし陸遜や全琮は、孫策以来の基業はすでに江東で十分に支えられており、遠海の風波や風土病の危険が大きい上、たとえ連れ帰っても役に立つとは限らないと反対した。孫権は聞き入れなかった。
浮華交遊への弾劾
- 魏では諸葛誕・鄧颺らが党派を作り、互いに人物評価を与え合って名声を高めていた。夏侯玄ら四人を「四聡」、誕ら八人を「八達」と呼び、さらに劉熙・孫密・衛烈を、その父たちの権勢に配慮して「三豫」に数えた。
- 行司徒事の董昭は上疏し、こうした交遊が学問や徳行を軽視し、党誉を爵賞の基準にし、反対者には瑕疵を作って貶めるなど、風俗と政治を乱していると厳しく批判した。さらに、奴客に官職名を冒用させて禁中に出入りし、情報を探るような不法行為まであると指摘した。明帝はこの意見を是とした。
二月 学問重視の詔
- 明帝は、戦乱以来すたれた経学を立て直すため、「郎吏のうち一経に通じ、民を治める才のある者は博士が試験して高成績の者から取り立てよ。浮華に走って道の本を務めない者は退けよ」と詔した。
- これにより諸葛誕・鄧颺らは免官された。
夏 鍾繇・卞太后の死
- 四月、定陵成侯鍾繇が死去した。
- 六月、太皇太后卞氏が崩じた。
秋 曹真の蜀征討計画と中止
- 蜀がたびたび侵攻してくるため、大司馬曹真は斜谷から蜀を討つことを請い、諸将が数道から進めば大勝できると主張した。明帝はこれに従い、司馬懿には漢水を遡って西城から入り漢中で合流させ、他の諸将には子午谷や武都方面から進ませようとした。
- しかし司空陳羣は、太祖が陽平を攻めた際ですら現地の糧秣に頼ってなお苦しかったのに、今回はその見込みもなく、斜谷は険しく輸送も敵に襲われやすいと反対した。明帝はいったんこの意見を採ったが、曹真はさらに子午道からの進軍を上表し、結局それを根拠に出兵した。
- 八月、明帝は東巡して許昌に赴いた。諸葛亮は魏軍来襲を聞き、成固の赤坂に陣して備え、李厳にも二万人で漢中へ来るよう命じ、その子李豊に江州後方を任せた。
- ところが大雨が三十日以上続き、桟道が切れてしまった。華歆・楊阜・王粛らは相次いで上疏し、民生こそ国の基であり、深山の遠征は輸送難・長雨・地形不利で危険すぎる、好機でなければ退くのが善政だと諫めた。
- 明帝は、まず敵情を窺って機を見ていたのだと弁明しつつ、最終的に九月、曹真らに撤兵を命じた。
十月以後 徐宣と皇帝の信任
- 十月、明帝が洛陽に帰ると、留守政務を統轄していた左僕射徐宣が関係文書を差し出させた。すると明帝は「私が見るのと僕射が見るのとで何が違うのか」と言い、結局目を通さなかった。徐宣への信任の厚さを示す。
十二月 文昭皇后改葬
- 文昭皇后を朝陽陵に改葬した。旧陵は低湿地だったためである。
呉の合肥偽退と満寵の判断
- 孫権は合肥へ向かうように見せた。征東将軍満寵は兗州・豫州の諸軍を召集したが、呉軍はすぐ退いたため、朝廷は兵を解散させようとした。
- しかし満寵は「大軍を出しておいて何の意図もなく退くはずがない。こちらに兵を罷めさせておいて、不意に引き返してくるつもりだ」と判断し、解兵しないよう上表した。
- 十日あまり後、呉軍は果たして再び合肥へ来たが、城を落とせずに退いた。
諸葛亮と蔣琬
- 諸葛亮は蔣琬を長史とした。自ら外征に出ることが多かったが、蔣琬は兵糧・軍備の補給を十分に行い、諸葛亮も「公琰は志が忠実で雅量があり、自分とともに王業を助ける者だ」と高く評した。
隠蕃の亡命と呉国内の動揺
- 青州人の隠蕃が呉へ逃れ、上書して「自分の言はまだ十分に上に届いていない」と訴えた。孫権が召し出して問答すると、時勢論も巧みで、姿や弁舌も見事だった。
- 胡綜は、上書の大言壮語は東方朔のようで、機知と弁舌は禰衡に似るが、才能はそこまで及ばないと評し、まずは都下の小官を試すべきだと答えた。孫権は隠蕃を廷尉監に任じた。
- 左将軍朱拠や廷尉郝普は、隠蕃を王佐の才だと持ち上げ、とくに郝普は親密に交わった。全琮らも好意的で、門前には車馬が群がった。
- これに対し、羊衜や宣詔郎楊迪は交際を拒み、潘濬の子潘翥も一時は関わったが、潘濬は厳しく叱責し、杖打ちまで命じて贈物を返させた。人々はこれを怪しんだ。
- まもなく隠蕃の反乱計画が発覚し、逃亡後に捕らえられて誅された。孫権は郝普を厳しく責め、郝普は恐れて自殺した。朱拠は謹慎処分となり、後に解除された。
武陵五渓蛮の反乱
- 武陵の五渓蛮夷が呉に叛いた。
- 孫権は南方がひとまず安定したとみて、交州刺史呂岱を呼び戻し、長沙の漚口に駐屯させた。