資治通鑑漢紀五十九 孝獻皇帝 建安十九年 214年
春:夏侯淵の涼州方面作戦
- 馬超は張魯に兵を求め、北上して涼州の奪回を図り、祁山を包囲した。
- 姜敘が夏侯淵へ急報すると、諸将は曹操の指示を待つべきだと主張したが、夏侯淵は、鄴との往復では救援が間に合わないとして即座に出兵し、張郃に歩騎五千を率いさせて先鋒とした。
- 馬超は敗走し、韓遂は顯親にいた。夏侯淵は韓遂を追って畧陽城近くまで迫ったが、諸将の間では韓遂本隊を攻めるか、興國氐を攻めるかで意見が分かれた。
- 夏侯淵は、韓遂の精兵と堅城を正面から急攻するより、長離の羌を攻めれば韓遂は必ず救援に出ると判断した。そこで輜重を残して軽兵で長離に進み、燒羌の屯を攻撃した。
- 韓遂は予想通り救援に出た。諸将は陣営と塹壕を築こうとしたが、夏侯淵は千里の転戦で兵はすでに疲れているとして即時決戦を選び、大いに韓遂軍を破った。
- 続いて興國氐を包囲すると、氐王千萬は馬超のもとへ逃げ、残兵は降伏した。さらに高平の屠各も撃破され、隴右の情勢は大きく魏側に傾いた。
三月:曹操への殊遇
- 詔により、魏公曹操の位階は諸侯王の上とされ、金璽・赤紱・遠游冠を改めて授けられた。
夏:孫権の皖城攻略
- 春から旱魃が続き、五月になってようやく雨が降った。
- それ以前に曹操は廬江太守朱光を皖に駐屯させ、大規模な水田開発を進めさせていた。呂蒙は孫権に対し、皖の収穫が実れば敵の兵力が増すとして、早急な攻略を進言した。
- 閏月、孫権は自ら皖城を攻めた。諸将は土山や攻城具の整備を唱えたが、呂蒙は、長引けば守備と外援が整い、水も引いて退路が苦しくなるとして、短期決戦を主張した。
- 孫権はこれに従い、呂蒙の推薦で甘寧が先登役となった。甘寧は身軽な装いで城壁をよじ登り、呂蒙も精鋭を率いて続き、鼓を打って全軍を励ました。
- 攻撃は早朝に始まり、朝食のころには城が落ちた。朱光は捕らえられ、男女数万が鹵獲された。
- その後、張遼が夾石まで来たが、皖城陥落を知って撤退した。孫権は呂蒙を廬江太守に任じ、尋陽へ戻らせた。
劉備の益州攻略の進展
- 諸葛亮は関羽を荊州に残し、自ら張飛・趙雲とともに長江をさかのぼって巴東を平定し、さらに江州に進んで巴郡太守嚴顔を破り、生け捕りにした。
- 張飛が降伏を責めると、嚴顔は益州の将として首は差し出せても降将にはならぬと気丈に答えた。張飛はその胆力を称えて釈放し、賓客として遇した。
- 趙雲は外水方面から江陽・犍為を平定し、張飛は巴西・徳陽を平定した。
- 劉備は一年近く雒城を包囲したが、その最中に龐統が流れ矢に当たって戦死した。
- 法正は劉璋に対し、形勢の強弱を説き、劉備にはもともと害意がなかったとしつつ、情勢変化を見て一門を保全する策を取るべきだと勧めたが、劉璋は応じなかった。
- やがて雒城が陥落し、劉備は成都を包囲した。諸葛亮・張飛・趙雲の軍も到着して合流した。
馬超の離反と成都降伏
- 馬超は、張魯が大事を共にできる相手ではなく、楊昂らが自分をしばしば妬んで害そうとするのを憂え、内心では不満を深めていた。
- 劉備は建寧督郵李恢を派遣して馬超を説得した。馬超は武都から氐中に逃れ、密書で劉備に降伏を申し出た。劉備は表向き動きを止めつつ、ひそかに軍資を与えた。
- 馬超が成都北に軍を進めると、城中は大いに動揺した。
- 劉備は数十日包囲したのち、簡雍を劉璋のもとへ遣わした。成都にはなお精兵三万と一年分の食糧・絹帛があり、官吏・民衆も抗戦を望んでいた。
- しかし劉璋は、父子二代余り益州にあって百姓に恩徳を施せず、三年の戦乱で民を苦しめたのは自分の責任だとして、これ以上戦えないと考え、城門を開いて降伏した。
- 劉備は劉璋を公安へ移し、その財物を返還し、従前の振威将軍印綬もそのまま帯びさせた。
- 劉備は成都で大宴を開き、城中の金銀を将士に分け与えた一方、穀物や絹帛は元の持ち主に返した。
劉備の益州統治体制
- 劉備は益州牧を兼ね、諸葛亮を軍師将軍・益州太守、董和を掌軍中郎将として左将軍府の政務を総覧させた。
- 馬超を平西将軍、法正を蜀郡太守・揚武将軍、黄忠を討虜将軍、糜竺を安漢将軍、簡雍を昭徳将軍、孫乾を秉忠将軍、黄権を偏将軍、許靖を長史、龐羲を司馬、李嚴を犍為太守、費観を巴郡太守、伊籍を従事中郎、劉巴を西曹掾、彭羕を益州治中従事に任じた。
- 董和は清廉で公正な官として蜀中で評判が高く、劉備はその声望を重んじて起用した。
- 劉巴はかつて劉備を避けて曹操に仕え、長沙・零陵・桂陽の招撫に当たったが失敗し、交阯を経て蜀へ入り劉璋に属していた。劉璋が劉備を迎える際にも危険を諫めた人物だった。
- それでも劉備は劉巴を害することを禁じ、得ると大いに喜んだ。
- 黄権は最後まで閉城して劉璋の降伏を見届けてから降り、董和・黄権・李嚴らは元来劉璋に用いられた者、呉懿・費観は劉璋の縁戚、彭羕はかつて劉璋に退けられた者、劉巴は劉備が旧来嫌っていた人物だったが、劉備はことごとく要職に置き、その才を尽くさせた。
- そのため、志ある士は競って励み、益州の人心もよく和した。
- 許靖については、成都陥落前に城を越えて劉備へ降ろうとしていたため、劉備は当初軽んじた。だが法正が、許靖は実力以上に名望がある人物であり、創業期には遠近の人心を慰撫するため礼遇が必要だと勧め、劉備はこれを受け入れた。
成都平定後の施策
- 成都攻略前、劉備は府庫の財物には自分は関与しないと将士に約していた。だが陥落後、兵たちは武器を捨てて蔵に殺到し、軍用資金が不足して劉備は困った。
- 劉巴は高額面貨幣である直百銭の鋳造と、公定価格による官営市場の設置を提案した。劉備が従うと、数か月で府庫は充実した。
- 成都の田宅を諸将に分与する案も出たが、趙雲は、天下が未定のうちは私宅を求めるべきでなく、益州の人々には兵乱後まず旧業へ復帰させるべきだと述べた。劉備はこの意見に従った。
霍峻の葭萌城防衛
- 劉備が劉璋を襲った際、霍峻を葭萌城に残して守らせていた。
- 張魯は楊昂を遣わして共同防衛を持ちかけたが、霍峻は、城は渡せないと拒絶した。
- のちに劉璋方の扶禁・向存らが閬水をさかのぼって一万余で攻め、一年近く包囲した。
- 霍峻は城中数百人でこれに耐え、敵の隙を突いて精鋭を出し、大いにこれを破って向存を斬った。
- 劉備は蜀平定後、広漢を分けて梓潼郡を置き、霍峻を梓潼太守に任じた。
法正・諸葛亮の統治論
- 法正は都城周辺を統轄し、内では劉備の主な謀臣として権勢を振るった。小さな恩にも報い、少しの怨みも忘れず、私怨で数人を殺傷した。
- 諸葛亮にその専横を抑えるよう勧める者がいたが、諸葛亮は、かつて劉備が公安にいたころ北に曹操、東に孫権を恐れ、内には孫夫人の変事まで憂えていた時、法正があってこそ益州奪取という大転換が成ったのだから、多少はその意を行わせるべきだと答えた。
- 一方、諸葛亮の蜀統治はかなり厳格で、人々の怨嗟もあった。法正は、高祖が関中で寛政を示した先例を引いて、今は新たに国を得たばかりなのだから刑罰を緩めて人心を慰めるべきだと進言した。
- 諸葛亮は、蜀では劉焉以来の恩威のあり方が緩み、士人が専横し君臣秩序がゆるんでいたことこそ弊害の根本だと論じ、法と爵位の両面で秩序を整えるのが治道だと説いた。
蔣琬の評価
- 劉備は零陵の蔣琬を広都長にしていた。
- 劉備が巡察してみると、広都では政務が整わず、蔣琬は酒に沈んでいたため、怒って処罰しようとした。
- 諸葛亮は、蔣琬は国家を支える器であって一県の才にとどまらず、民安を本とする人物だとして再考を求めた。劉備は諸葛亮を敬っていたため、死罪は免じ、ひとまず免官にとどめた。
秋:曹操の出征と鄴の人事
- 秋七月、魏公曹操は孫権征討に向かい、少子の臨菑侯曹植を鄴の留守に置いた。
- 曹操は諸子のために優れた属官を選び、邢顒を曹植の家丞に任じた。邢顒は礼により厳しく節度を守らせ、迎合しなかったため、曹植とは折り合いが悪かった。
- 庶子劉楨は文才で寵愛されていたが、書を送り、家丞の実直さを軽んじては上に非難を招くと曹植を戒めた。
荀攸の死
- 魏の尚書令荀攸が死去した。
- 荀攸は深く慎重で知略に富み、曹操の征討では常に帷幄で策を立てたが、その内容は時人にも子弟にもほとんど知られなかった。
- 曹操は、荀彧が善を推挙してやまず、荀攸が悪を除いてやまないこと、またこの二人の人物評は時を経るほど確かだとして、生涯忘れないと称えた。
冬十月:宋建討伐と隴右平定
- 枹罕の宋建は、涼州の乱に乗じて河首平漢王を称し、独自の元号と百官を立てて三十余年を保っていた。
- 冬十月、曹操は夏侯淵に命じて興國から宋建を討たせた。夏侯淵は枹罕を包囲して攻め落とし、宋建を斬った。
- 別働の張郃らは河を渡って小湟中へ入り、河西の諸羌もみな降った。
- こうして隴右一帯は平定された。
献帝と曹操の緊張
- 献帝は許に遷都して以来、位を保つだけの存在となり、左右侍衛もほとんど曹氏の人々で占められていた。
- 議郎趙彦が時政を献帝に進言したところ、曹操はこれを憎んで殺した。
- のちに曹操が入朝して殿中で拝謁した際、献帝は恐怖に耐えられず、協力するなら厚遇するが、そうでなければせめて恩を垂れて自分を見逃してほしいと語った。曹操は顔色を変えて退出した。
- その後、旧制で三公が兵を領して朝見する時には虎賁が抜刀して左右に立つ慣例もあって、曹操は退出後に汗びっしょりとなり、以後はあまり朝請しなくなった。
伏皇后の廃殺
- 董承の娘は献帝の貴人であったが、曹操が董承を誅した際、妊娠していた彼女も殺そうとした。献帝はたびたび助命を願ったが聞き入れられなかった。
- 伏皇后はこのことから曹操への恐怖を深め、父の伏完に密書を送り、曹操の横暴を訴えてひそかに対策を図るよう求めた。しかし伏完は動けず、ついにこの書が漏れた。
- 十一月、曹操は激怒し、御史大夫郗慮に節を持たせ、尚書令華歆を副えて宮中に兵を入れさせ、皇后の璽綬を収めた。
- 伏皇后は戸を閉ざし壁中に隠れたが、華歆が戸と壁を壊して引き出した。
- 献帝は外殿にいて郗慮を座に引き、皇后が髪を乱し裸足で泣きながら通ると、もはや互いに助かれないのかと訣別した。帝自身も自分の命運すらわからないと言い、郗慮に天下にこんなことがあってよいのかと嘆いた。
- 伏皇后は暴室に下されて幽閉の末に死に、彼女の産んだ二皇子も毒殺された。兄弟宗族まであわせ百余人が誅された。
十二月:孟津と高柔の進言
- 十二月、曹操は孟津に至った。
- 曹操は尚書郎高柔を理曹掾に抜擢した。旧法では、出征軍から逃亡した兵について、その妻子まで追及したが、曹操はさらに刑を重くして父母兄弟にも及ぼそうとした。
- 高柔は、逃亡兵の中には後悔して戻ろうとする者もあり、家族を赦しておけば帰還を誘えるが、刑を重ねれば残兵まで連れ立って逃げるようになると諫めた。
- 曹操はこれを善しとして、その増刑を取りやめた。