春正月 濡須口の対陣
- 曹操は濡須口へ進み、号して歩騎四十万とし、孫権の江西営を破って都督公孫陽を捕えた。
- 孫権は七万を率いてこれを防ぎ、一か月余り対陣した。曹操はその舟船・武器・軍容の整粛ぶりを見て、男子を生むなら孫仲謀のようであるべきで、劉表の子らは豚犬にすぎぬと嘆賞した。
- 孫権は書を送り、春水が増す前に退くよう勧め、別紙には「足下が死ななければ、こちらも安らかではいられぬ」と記した。曹操は諸将に、孫権は自分を欺いていないと言い、軍を撤いた。
庚寅 州制の再編
- 詔により、十四州をあわせて旧来の九州体制に戻した。
- ただしこれは、曹操が冀州牧として自らの統轄を広げ、天下支配を有利にする意図があったと胡三省は見る。
夏四月 淮南移民策の失敗
- 曹操は以前、長江沿岸の郡県が孫権に侵されるのを恐れ、内地へ住民を移そうと考え、揚州別駕の蔣済に意見を求めた。
- 蔣済は、官渡のころは自軍が弱く敵が強かったから移住もやむを得なかったが、今はすでに威が天下を震わせ、民は土地を離れたがらないので、移せば必ず不安を生むと反対した。
- 曹操は聞き入れず、その結果、民衆は互いに驚き合って廬江・九江・鄿春・広陵から十余万戸がみな東の江南へ渡り、江西は空虚となった。合肥以南では皖城だけが残った。後に蔣済が鄴へ使いした際、曹操は、賊を避けさせるつもりが、かえって根こそぎ追いやってしまったと笑い、蔣済を丹陽太守に任じた。
五月丙申 曹操、魏公となる
- 冀州十郡をもって魏国を立て、曹操を魏公に封じ、なお丞相・冀州牧を兼ねさせた。
- あわせて九錫を正式に加え、大輅・戎輅・玄牡二駟・衮冕・赤舄・軒県の楽・八佾の舞・朱戸・納陛・虎賁三百人・鈇鉞・彤弓彤矢・玈弓玈矢・秬鬯・珪瓚などを与えた。
益州攻略 鄭度の焦土策と劉璋の拒否
- 益州従事の鄭度は、劉備は遠征軍で兵も一万に満たず、兵站も乏しく野の穀に頼っているのだから、巴西・梓潼の民を涪水西方へ移し、倉廩や野穀を焼き払い、深い濠と高い塁で持久すれば、百日もせず撤退するので、その帰路を討てば必ず捕えられると進言した。
- 劉備はこの策を聞いて不快に思い、法正に問うた。法正は、劉璋は結局これを用いまいから心配ないと答えた。
- 実際、劉璋は、敵を防ぐのに民を動かして安んずるというのは聞くが、民を苦しめて敵を避けるなど聞いたことがないと言って退けた。
劉備軍の進撃
- 劉璋は劉璝・冷苞・張任・鄧賢・呉懿らを派遣して劉備を防がせたが、みな敗れて綿竹へ退いた。呉懿は軍中に降った。
- 劉璋はさらに護軍李厳・費観に綿竹の諸軍を督させたが、この二人もまた兵を率いて劉備へ降り、劉備軍はますます強くなった。属県平定のため諸将が分遣された。
- 劉璝・張任は劉璋の子の劉循とともに雒城へ退いて守り、劉備はこれを包囲した。張任は鴈橋で出撃して戦ったが敗れ、戦死した。
秋七月 魏の社稷宗廟
- 魏で初めて社稷と宗廟が建てられた。
- また魏公曹操は三人の娘を後宮に入れた。
馬超、隴上を荒らす
- 以前、曹操が馬超を安定まで追った際、田銀・蘇伯の反乱を聞いて引き返したとき、凉州参軍事の楊阜は、馬超は韓信・黥布のような勇があり、羌胡の人望も厚いので、備えなく撤兵すれば隴上諸郡は国家のものではなくなると警告していた。曹操は帰り、果たして馬超は羌胡を率いて隴上諸郡を攻め、ほとんどが呼応した。
- ただ冀城だけは州郡が固守した。馬超は隴右の兵をほぼ併せ、張魯も楊昂を援軍に送ったので、一万余で冀城を攻めた。
- 正月から八月まで救援は来ず、刺史韋康は別駕閻温を城外に出して夏侯淵へ急を告げさせた。閻温は夜、水中から潜出したが、翌日追われて捕えられた。馬超は城下で「東方に救兵なし」と言わせようとしたが、閻温はむしろ「大軍は三日と経たず来る、励め」と叫んだ。城中は泣いて万歳を唱えた。馬超は長く懐柔しようとしたが、閻温は君に事えて二心なしと拒み、ついに殺された。
- やがて韋康らは降伏を決めた。楊阜は、州人はみな義によって励ましあい、この城を守ると誓ったのに、いま完成目前の功を棄てて不義の名を受けるのかと号泣して諫めたが、入れられなかった。城門は開かれ、馬超が入城すると韋康らを殺し、自ら征西将軍・并州牧・督凉州軍事を称した。
- 曹操が派遣した夏侯淵の救援は間に合わず、冀城陥落後に至った。馬超は二百余里出て迎え撃ち、夏侯淵は不利となって退いた。氐王千萬も叛いて馬超に応じ、興国に屯した。
楊阜・姜叙らの馬超討伐
- 楊阜は妻の喪を口実に馬超から帰省の暇を得て、外兄の姜叙とその母に会った。楊阜は、城を完守できず君のために死ねなかったことを恥じ、馬超は父に背き君を殺した賊だ、討たぬなら州の士大夫すべての恥だと訴えた。
- 姜叙の母もこれに奮起し、自分の余命が息子の忠義の妨げになってはならぬから、速やかに事を起こせと励ました。姜叙は趙昂・尹奉・李俊らと結び、さらに冀城の梁寛・趙衢らを内応させることにした。馬超は趙昂の子月を人質に取っていたが、趙昂の妻は、君父の大恥を雪ぐのに一子を惜しむべきでないと夫を励ました。
- 九月、楊阜・姜叙らは鹵城に入り、趙昂は祁山を押さえて挙兵した。馬超は激怒してこれを討とうと城外へ出たが、趙衢と梁寛はただちに城門を閉ざし、馬超の妻子を皆殺しにした。
- 馬超は進退窮まり、厯城を襲って姜叙の母を得た。老母は、父に背き君を殺した逆賊よ、どうしてなお人前に顔向けできるのかと罵ったため、馬超はこれを殺し、趙昂の子月も殺した。
- 楊阜は馬超との戦いで五か所の傷を負ったが、馬超軍は敗れ、馬超は南へ張魯のもとへ逃れた。張魯は馬超を都講祭酒としたが、娘を嫁がせようとすると、父を愛せぬ者がどうして他人を愛せようかと諫める者があり、中止した。
- 曹操は馬超討伐の功により十一人を侯に封じ、楊阜には関内侯の爵を賜った。
冬十一月 魏の官制整備
- 魏では初めて尚書・侍中・六卿を置いた。荀攸を尚書令、凉茂を僕射、毛玠・崔琰・常林・徐奕・何夔を尚書、王粲・杜襲・衛覬・和洽を侍中とし、鍾繇を大理、王修を大司農、袁渙を郎中令として御史大夫事を行わせ、陳羣を御史中丞とした。
- 袁渙は賞賜を受けてもみな人に分け、家に蓄えを置かず、足りなければ他人から借りるほどであったが、ことさらに清廉を誇るような振る舞いはせず、それでも当時の人々はその清さを敬服した。
- 劉備が死んだという流言が流れたとき、群臣は賀したが、袁渙だけは賀さなかった。
肉刑復活の議
- 魏公曹操は、肉刑の復活を考え、昔に陳紀が、死刑よりもかえって仁にかなう場合があると論じたので、その子陳羣に父の説を申させた。
- 陳羣は、漢が肉刑を廃したのち笞を増やした結果、名目上は軽くても実際には死者が増えたとし、殺人は死で償わせるのが古制に合うが、傷害まで身体切断に及ぼすのは理に適わぬと論じた。他方で、淫行者を宮刑、盗人を刖刑にするなど、古刑の一部を復活させれば、死刑に至る罪を減らし、生かす者と刑する者の均衡もとれると主張した。
- 鍾繇だけがこれに賛成し、他はみな時期尚早とした。曹操も軍事がまだ終わっていないことから、衆議に従って中止した。