資治通鑑漢紀 孝獻皇帝 建安 十七年 212年

春正月 曹操への特権付与

  • 曹操が鄴へ帰ると、詔により、讃拝の際に名を呼ばれず、朝廷で小走りせず、剣を帯び履物のまま殿上に上がることを許され、蕭何の故事にならった待遇を受けた。

河間の反乱と常林・程昱・国淵

  • 曹操が西征している間、河間の田銀・蘇伯が反乱し、幽州・冀州を扇動した。曹丕は自ら討とうとしたが、功曹の常林は、北方は長く教化に服しており、この程度の賊は大害にならず、天下の鎮たる世子が軽々しく遠征すべきではないと諫めた。曹丕は賈信を派遣し、ただちに平定させた。
  • 余党千余人が降ると、従来の法では包囲ののちの降伏者は赦さないことになっていたが、程昱は、これは乱世の臨時法であり、今は天下がほぼ定まりつつある以上、勝手に処刑すべきでないと述べた。曹丕は曹操に報告し、曹操も殺さなかった。
  • 曹操はのちに程昱の配慮を聞いて喜び、軍略だけでなく父子の間の処し方にも通じていると称えた。
  • また、戦果報告では通常首級数を誇張するものだったが、国淵は実数のまま上申した。曹操が理由を尋ねると、河間は自領内であり、その叛乱を平らげたことを誇るのはむしろ恥だと答え、曹操は大いに悦んだ。

夏五月・六月・秋七月 馬騰誅殺と関中残党平定

  • 五月癸未、衛尉馬騰を誅し、三族を滅ぼした。
  • 六月晦日に日食があった。
  • 七月、虫害があり、馬超の残党が藍田に屯していたため、夏侯淵がこれを撃って平らげた。

鄭渾、馮翊を安定させる

  • 鄜の賊梁興が馮翊の諸県を侵したため、人々は恐れて郡治のもとに集まった。多くは険阻へ移るべきだとしたが、左馮翊の鄭渾は、賊の多くは脅されて従っているだけであり、降路を広く開いて信義を示すべきだと主張した。
  • 鄭渾は城郭を修えつつ、賊を追った民に財物や婦女の大半を賞として与え、人々の意欲を高めた。妻子を失った賊は戻って降ろうとし、鄭渾は他人から奪った婦女を返せば受け入れるとしたため、賊徒は互いに離散した。
  • さらに山谷へ恩信ある者を送り、諸県長吏をもとの治所へ戻して住民を安んじた。梁興が鄜に集まると、曹操は夏侯淵を差し向けて鄭渾を助けさせ、ついに梁興を斬って余党を平定した。

九月 皇子封王と孫権の遷都

  • 皇子の熈を済陰王、懿を山陽王、邈を済北王、敦を東海王に立てた。許靖はこれを、まず広く与えてから後に奪う布石であり、曹操の意図が見えると評した。
  • 以前から張紘は秣陵の地勢を都に適すると孫権に勧めており、劉備も東行の際に同様に勧めていた。そこで孫権は石頭城を築き、治所を秣陵に移し、秣陵を建業と改めた。

呂蒙の濡須塢建設案

  • 曹操の東征に備え、呂蒙は孫権に、濡須水口の両岸に塢を築くよう説いた。将軍たちは、上陸して戦っても足を洗って船に戻ればよいのだから不要だと笑った。
  • しかし呂蒙は、戦には不測があり、敵の歩騎に迫られれば水辺まで退く暇もなくなると論じた。孫権はこれを採用し、濡須塢を築いた。

冬十月 董昭の進爵建議と荀彧の死

  • 曹操が孫権を討とうとすると、董昭は、古来これほどの功績を立ててなお久しく人臣にとどまった例はなく、明公が名節を惜しんでも、周囲は必ず大事を疑うから、国公へ進め九錫を加えるべきだと列侯諸将に議させた。
  • 荀彧は、曹操は本来、義兵を起こして王室を扶け国家を安んずる志であり、忠貞と謙退を守ってきたのだから、ここでその道を失うべきでないと反対した。曹操はこれを快く思わなかった。
  • 曹操は孫権討伐に際し、荀彧に譙で労軍させるという名目で呼び寄せ、そのまま侍中・光禄大夫・持節として丞相軍に参与させた。荀彧は寿春で病と称して留まり、薬を飲んで死んだ。胡三省は、空の器を贈られて自死したという伝えもあるが、史書がその死を曖昧にしている事情に触れている。
  • 荀彧は行い正しく知謀に富み、賢者を推して士を進めることを好んだので、当時の人々はみなその死を惜しんだ。

司馬光の評

  • 司馬光は、孔子が「仁」を非常に重く見ていたことを踏まえつつ、管仲だけは明確に仁者としたのは、斉桓公を補佐して広く生民を救ったからだと論じる。
  • その上で、漢末の大乱において荀彧が曹操を補けたこともまた、天下の塗炭を救うためには不可欠であり、その功は管仲に劣らないと評価する。
  • そして、曹操が帝位を奪うのを助けながら最後に漢室への名節を求めた裏切り者だとする杜牧の評を退け、荀彧をそのように非難するのは当たらないとする。

十二月 星変と劉備、益州奪取へ転ずる

  • 五諸侯の星域に彗星が現れた。
  • 葭萌にいた劉備に対し、龐統は成都急襲・関将捕縛・白帝退却の三策を示し、中策として、楊懐・高沛に荊州急報を口実に会いに来させて捕え、その兵を奪って成都へ進む案を勧めた。劉備はこれを採用した。
  • ちょうど曹操が孫権を攻めると、孫権は劉備に救援を求めた。劉備は劉璋に書を送り、孫氏は唇歯の関係であり、関羽の兵は弱いので、救わなければ曹操が荊州を奪って益州にも及ぶと述べ、兵一万と糧を求めた。だが劉璋は兵四千のみ、物資も半分しか与えなかった。
  • 劉備は兵士たちに、自分は益州のために強敵と戦うのに、主君は財貨を惜しんで恩賞を渋る、これでは士大夫が命を捨てて戦えるかと訴え、憤激させた。
  • 張松も、いま大事は成ろうとしているのにどうして去るのかと書を送った。しかし兄の張粛が連座を恐れてこの謀を告発したため、劉璋は張松を捕えて斬り、関所の将に劉備との文書往来を禁じた。
  • 劉備は激怒し、白水軍督の楊懐・高沛を召して無礼を責めて斬り、その兵を併せて関頭から進み、涪城を占拠した。