春正月 曹丕を丞相副とする
- 曹操は世子の曹丕を五官中郎将とし、属官を置いて丞相の副役にあてた。
三月 関中諸将の反乱
- 曹操は司隷校尉の鍾繇に張魯討伐を命じ、夏侯淵らを河東から出して合流させようとした。
- 倉曹属の高柔は、大軍が西へ動けば韓遂・馬超らが自分たちへの攻撃と疑い、必ず扇動しあうと諫め、まず三輔を安定させるべきだと進言したが、曹操は従わなかった。
- すると高柔の予言どおり、馬超・韓遂・侯選・程銀・楊秋・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩の十部がみな叛き、十万の兵を率いて潼関に拠った。曹操は曹仁に諸将を督させ、固く守って戦うなと命じた。
留守の整備
- 曹操は曹丕を鄴に留め、程昱をその参軍事とし、徐宣を左護軍、国淵を居府長史として留守の軍政・政務を統括させた。
秋七月―九月 潼関の戦い
- 曹操が自ら西征に向かうと、関西の兵は長矛に熟達しているので精鋭の前鋒が必要だとの声が上がったが、曹操は勝敗は敵ではなくこちらの用兵次第だと言った。
- 八月、曹操は潼関に着き、馬超らと関を挟んで対陣した。正面で圧力をかける一方、徐晃・朱霊に歩騎四千を与えてひそかに蒲阪津を渡らせ、河西に営を築かせた。
- 閏月には曹操も北へ渡河したが、兵を先に渡し、自らは虎士百余人と南岸に残って殿を務めた。馬超が一万余で猛攻し矢が雨のように降るなか、曹操はなお胡床に座して動かなかった。許褚は馬鞍を盾として曹操をかばい、丁斐が牛馬を放って敵を乱したため、ようやく脱出に成功した。
- 曹操は西河を渡って甬道を築きつつ南下し、渭水南岸に陣を設けた。馬超らが夜襲すると伏兵でこれを破り、敵は和議を求めて黄河以西の割譲や人質提出を申し出たが、曹操は受けなかった。
- 九月、馬超らはしばしば挑戦したが、曹操は応じず、賈詡の進言で和議を装いながら韓遂と馬超の離間を図った。韓遂と旧交ある曹操は直接会見し、軍事を語らず京師の昔話だけをして笑い合ったため、馬超らは韓遂を疑った。さらに曹操が韓遂に送った書にわざと多くの書き入れをし、韓遂が改定したように見せたことで、疑いはいっそう深まった。
- その後、曹操は期日を定めて決戦し、まず軽兵で誘い、長く戦わせたのち虎騎で両翼から挟撃して大破した。成宜・李堪らは斬られ、韓遂・馬超は涼州へ、楊秋は安定へ逃れた。
曹操、勝因を語る
- 諸将が、なぜ最初から河東経由で馮翊へ入らず、潼関に兵を向けて日を費やしたのかと問うと、曹操は、まず敵を潼関南面に集中させて西河の備えを空にし、それから徐晃・朱霊に渡河させたのだと説明した。
- さらに、甬道を築いて弱く見せ、渭南に堅塁を置いて敵を驕らせ、割地の議を受け入れるふりで油断させてから、一撃で決したのだと語った。
- また、関中の諸部が各個に籠もるよりも、一か所に集まりながら主導者を欠いていたため、かえって滅ぼしやすかったと述べた。
冬十月・十二月 関中平定後の処置
- 曹操は長安から北へ進み、安定を囲んで楊秋を降した。爵位はそのままにして、現地の鎮撫に当たらせた。
- 十二月、曹操は安定から帰還し、夏侯淵を長安に駐屯させ、張既を京兆尹に任じて流民を招き、県邑を復興させた。百姓はこれを喜んだ。
河東の功
- 馬超・韓遂が叛いた際、弘農や馮翊では多くの県邑が呼応したが、河東だけは変心せず、曹操軍の兵糧もみなここに頼った。
- 戦後になお二十余万斛の余糧があったため、曹操は河東太守の杜畿の秩を中二千石に引き上げた。
益州 張松・法正、劉備を招く
- 劉璋の下では、扶風出身の法正が軍議校尉となっていたが、用いられず、同郷の寄寓者たちにも軽んじられて不遇であった。
- 益州別駕の張松は法正と親しく、自分の才に比べて劉璋は大事をなせる人物ではないと見ていた。そこで劉璋に劉備との提携を勧め、使者として法正を推した。
- 法正は荊州へ赴き、帰国すると、劉備は雄略に富み、密かに州主として迎えるべきだと張松と図った。
- ちょうど曹操が鍾繇を漢中へ向かわせたため、劉璋は恐れた。張松は、張魯を討つ役は劉備に任せるべきであり、そうすれば益州は強まり、内外の危険にも対処できると説いた。劉璋はこれに従い、法正に四千人を率いさせて劉備を迎えさせた。
黄権・王累の諫止と劉備入蜀
- 主簿黄権は、劉備を部曲として遇すれば不満を招き、賓客として遇すれば二君並び立つ形になる、主人にとっては累卵の危うさだと諫めたが、劉璋は聞かず、黄権を広漢長へ左遷した。
- 従事の王累も州門に逆さに吊られてまで諫めたが、やはり受け入れられなかった。
- 法正は荊州で劉備に、張松が内応する今なら益州奪取は手を返すほど容易だと密かに説いた。劉備は当初なお躊躇したが、龐統は、荊州は荒廃し、東に孫権、北に曹操がいて大業を成しにくい一方、益州は戸口百万・沃野・財貨があり、大いに資する土地だと進言した。
- 劉備は、曹操には寛仁忠実をもって反対の道をとるべきだが、わずかな利で天下の信義を失ってよいのかと述べた。これに対し龐統は、乱世では「逆取順守」が常道であり、成事の後に報いれば信義には背かぬと説いた。劉備はついにこれを是とした。
- 劉備は諸葛亮・関羽らを荊州に残し、趙雲を留営司馬として入蜀した。孫権はその西上を聞き、妹を迎えに船を出したが、夫人は劉禅を連れ帰ろうとしたため、張飛・趙雲が兵を率いて長江上で遮り、劉禅だけを取り戻した。
劉備と劉璋の会見
- 劉璋は沿道の官に劉備を厚く供給させた。劉備が巴郡に入ると、太守厳顔は、これは険しい山中に座して虎を内へ引き入れるようなものだと嘆いた。
- 劉備は江州から墊江水を北上して涪へ至り、劉璋も三万余の兵・車馬・帳幕を率いて会見した。法正は席上で劉璋を襲うことを勧めたが、劉備は入国早々で恩信がまだ立っていないとして退けた。
- 双方は互いに高位を推戴しあい、百余日にわたり歓飲した。劉璋はさらに兵を増やし、資材を与えて、張魯討伐と白水軍の督を任せた。劉備は兵三万余を得て、車馬・武器・財貨も豊かになった。
- 劉璋が成都へ帰ると、劉備は葭萌まで進み、すぐには張魯を討たず、恩徳を施して人心の掌握に努めた。