春 曹操、唯才是挙を命じる
- 曹操は布令を出し、廉潔さだけを基準にして人を用いてはならないと述べた。
- 孔子が孟公綽について、大国の家老には向くが小国の執政には向かぬと評した例を引き、また斉桓公が管仲を用いて覇を成したことを挙げて、才能のある者を広く抜擢せよと命じた。
二月乙巳朔 日食
冬 銅雀台の造営
十二月己亥 曹操の自己弁明
- 曹操は、自分は若いころ孝廉に挙げられたが、名士の出ではないため世人に軽んじられることを恐れ、済南相時代には汚職役人を退けて名を立てようとしたと語った。だが豪族の怨みを買い、病を理由に帰郷したという。
- その後、典軍校尉に召され、国のために賊を討って功を立てたいと志したこと、董卓の乱以後に挙兵し、黄巾・袁術・袁紹・劉表を次々と平らげ、ついに天下の大半を治めるに至った経緯を振り返った。
- そして、自分が兵権を手放せばかえって災いを招き、子孫や国家まで危うくすると述べ、なお実権を保持する必要を説明した。他方で、広すぎる封邑は辞退すべきだとして、陽夏・柘・苦の三県二万戸を返上し、武平の一万戸のみを食むとした。
劉備、孫権に荊州統轄を求める
- 劉表配下の旧吏士には劉備へ帰する者が多く、周瑜が与えた土地だけでは彼らを収容しきれなかった。そこで劉備は京口で孫権に会い、荊州全体の都督職を求めた。
- 周瑜は上疏して、劉備は梟雄であり、関羽・張飛という熊虎の将を擁している以上、久しく人の下にはいないと警告した。呉に留めて厚遇し、二将を分け置けば制御できるが、土地を与えて勢力を育てれば、蛟龍が雲雨を得るようなもので後患を残すと論じた。
- 呂範も留め置きを勧めたが、孫権は北方の曹操に対抗するため英雄を広く容れるべきだとして従わなかった。
- 劉備は後にこの進言の存在を知り、諸葛亮も同様に危険を予見していたが、当時は危急のため赴かざるを得なかったと嘆いた。
周瑜の蜀攻略構想と死
- 周瑜は京口で孫権に会い、曹操は赤壁の敗戦で内憂を抱えており、いまは呉と大規模に争えないと述べた。そこで自分に西征を命じ、蜀を奪い張魯を併呑し、さらに馬超と連携して、孫権自身は襄陽に拠って曹操を圧迫すれば、北方攻略も可能になると説いた。
- 孫権はこれを許したが、周瑜は江陵へ戻る途中で病が重くなった。遺書では、志を遂げられぬのが心残りであり、曹操と劉備という大患の中で、魯肅なら自分の後を継げると推挙した。
- 周瑜は巴丘で死去した。孫権は深く哀しみ、自ら蕪湖まで迎えに出た。周瑜の娘は孫登に嫁し、二子の循・胤にも孫権家から婚姻が与えられた。
周瑜の人柄
- 周瑜は孫策の時代から特別に厚遇され、孫権に対しても諸将がまだ簡略な礼で済ませていた時期から、ひとり臣下の礼を尽くした。
- 年長の程普はたびたび周瑜を侮ったが、周瑜はへりくだって争わず、やがて程普はかえって敬服した。程普は、周瑜と交わることはよい酒に酔うようなものだと人に語った。
魯肅の登用と荊州貸与
- 孫権は魯肅を奮武校尉として周瑜の兵を継がせ、程普を南郡太守とした。
- 魯肅は、劉備に荊州を貸し与えてともに曹操に当たるべきだと勧め、孫権はこれに従った。
- あわせて行政区分を改め、豫章から番陽郡を、長沙から漢昌郡を分け、程普を江夏太守、魯肅を漢昌太守として陸口に駐屯させた。
呂蒙の学問
- 孫権は呂蒙に、重任にある以上学ばぬわけにはいかないと諭した。経書の専門家になれというのではなく、広く歴史を読んで前例を知れというのである。
- 呂蒙は学び始め、後に魯肅が尋陽で論じ合うと、その見識の進歩に驚いた。呂蒙は「士は三日も別れれば目をこすって見直すべきだ」と応じ、魯肅はその母に拝礼して親交を結んだ。
龐統の抜擢
- 劉備配下の龐統は耒陽令となったが、県政を行わなかったため免職された。
- 魯肅は劉備に書を送り、龐統は小県の令にとどまる器ではなく、州の中枢でこそ才能を伸ばせると勧めた。諸葛亮も同様に推挙した。
- 劉備は龐統と会って大いに語り、その才を高く評価して治中に任じ、諸葛亮に次ぐ待遇を与え、両者をともに軍師中郎将とした。
交州・嶺南の帰属
- 交阯太守の士燮は、交州の混乱の中で弟たちを合浦・九真・南海の太守に推し、広く人士を受け入れて一州で強い威勢を保っていた。
- その地には、鬼神を好み道術に傾いた交州刺史張津がいたが、部下の区景に殺された。荊州の劉表は頼恭を後任に、また蒼梧太守史璜の死後は呉巨を派遣した。
- 朝廷は士燮に綏南中郎将・交阯太守のまま七郡を監督させたが、呉巨と頼恭は対立し、呉巨が頼恭を追放した。
- 孫権は歩騭を交州刺史に任じた。士燮は兄弟とともにこれに服属し、歩騭は表向き従いながら内心は逆らう呉巨を誘い出して斬った。これにより威令が嶺南に及び、士燮は子を人質に送り、嶺南は孫権に属するようになった。