資治通鑑漢紀 孝獻皇帝 建安 十四年 209年

春三月 孫権の合肥包囲と撤退

  • 孫権は合肥を長く包囲したが、容易に落とせなかった。自ら軽騎を率いて敵陣へ突入しようとしたが、長史の張紘が、主将は一時の勇ではなく大計を重んずべきだと強く諫めたため、孫権は思いとどまった。
  • 曹操は張喜を派遣して救援させたが到着が遅れた。そこで揚州別駕の蔣済は、張喜の軍がすでに雩婁に到着したという偽の書状をひそかに作り、城内へ届けさせた。これを孫権軍が奪って読んだため、孫権は援軍来着を信じ、急いで包囲を解いて退却した。

秋七月 曹操の淮南経営

  • 曹操は水軍を率いて渦水から淮水へ入り、さらに肥水を出て合肥に軍を進めた。
  • あわせて芍陂を開き、屯田を置いて兵糧確保と現地支配の基礎を整えた。

冬十月・十二月 災異と廬江の反乱

  • 荊州で地震が起きた。
  • 曹操が譙へ帰還したのち、廬江の陳蘭・梅成が灊・六で反乱を起こした。曹操は盪寇将軍の張遼に討伐を命じ、両者を斬ったうえで、張遼・楽進・李典ら七千余人を合肥に駐屯させた。

江陵・荊州の再編

  • 周瑜は一年余りにわたり曹仁を攻め、多くの損害を与えてついに江陵を放棄させた。孫権は周瑜を南郡太守として江陵に置き、程普を江夏太守として沙羨に、呂範を彭沢太守に、呂蒙を尋陽令に任じた。
  • 劉備は孫権を車騎将軍・徐州牧として推薦した。劉琦が死ぬと、孫権は劉備を荊州牧とし、周瑜は江南の地を分け与えた。劉備は油口に営を置き、ここを公安と改称した。

孫権の妹の降嫁

  • 孫権は妹を劉備に嫁がせた。
  • この夫人は気性が激しく、武勇を好み、侍女たちもみな刀を持って侍立していたため、劉備はその居所に入るたび心中穏やかでなかった。

蔣幹の説得失敗

  • 曹操はひそかに蔣幹を派遣し、周瑜の離間を図った。
  • 蔣幹は平服で私行を装って周瑜を訪ねたが、周瑜は陣営・兵糧・武器・饗応のすべてを見せ、主君との結びつきは蘇秦・張儀ほどの弁舌でも動かせぬと語った。
  • 蔣幹は帰って、周瑜は器量も志も高く、言葉で揺るがせる人物ではないと曹操に報告した。

和洽の進言

  • 丞相掾の和洽は曹操に、人材はそれぞれ長所短所があり、清貧一辺倒で人物を量るべきではないと説いた。
  • 当時は新しい衣を着たり良い車に乗ったりする者を不清廉とみなし、わざと身なりを損ねる風まで生じていたため、和洽は中庸を失えば偽善を助長すると戒めた。
  • 曹操はこれをよしとした。