資治通鑑漢紀五十七 孝獻皇帝 建安十三年 208年
春正月 曹操、権力集中を進める
- 司徒趙温が曹操の子曹丕を召辟したが、曹操は、臣下の子弟を実情に即さず選挙したとして趙温を罷免した。
- 曹操は鄴に帰ると玄武池を築き、水軍の訓練を始めた。
甘寧の帰順と黄祖討伐の提案
- 巴郡の甘寧は、以前劉表に属していたが、劉表が儒者肌で軍事に通じず将来性がないと見て、東へ呉へ入ろうとした。ところが黄祖のもとで足止めされ、三年も凡庸な扱いを受けた。
- 孫権が黄祖を攻めた際、黄祖は敗走したが、甘寧が後衛から凌操を射殺したことで黄祖は逃げ延びた。それでも黄祖は甘寧を重用しなかった。
- 都督の蘇飛がしばしば甘寧を薦めたが用いられず、蘇飛は甘寧を邾県長にして脱出の道を開いた。甘寧はついに孫権のもとへ奔った。
- 周瑜・呂蒙は甘寧を推挙し、孫権も旧臣同様に厚遇した。
- 甘寧は、漢室は衰え曹操はやがて簒奪者になる、呉は西方拡大のためにまず黄祖を滅ぼし、楚関を押さえてから巴蜀を図るべきだと献策した。
- 張昭は、呉の基盤がまだ不安定な時に遠征は危険だと反対したが、甘寧は、内政を張昭が支えるなら軍事行動を妨げるべきでないと反論した。孫権は甘寧の策を採用した。
黄祖滅亡
- 孫権は西進して黄祖を攻めた。黄祖は沔口に蒙衝を横たえ、大索で繋いで川を塞ぎ、上から弩を浴びせた。
- 董襲と凌統が敢死兵を率いて大型船で突入し、董襲が大索を断ち切ると、遮断船は流され、大軍が前進した。
- 黄祖配下の陳就が水軍で迎え撃ったが、呂蒙が前鋒を率いてその首を挙げた。
- 呉軍は水陸から総攻撃して城を落とし、黄祖は逃げたが追撃されて斬られた。男女数万口が捕虜となった。
- 孫権は黄祖と蘇飛の首を入れる函を用意していたが、甘寧が、かつて蘇飛に命を救われた恩義を述べて赦免を願い出た。蘇飛がもし逃げるなら自分の首で代えるとまで言ったため、孫権は感動して蘇飛を許した。
- 凌統は父凌操を殺した甘寧を恨んでいたので、孫権は両者を別の場所に駐屯させて私怨の衝突を防いだ。
夏六月 丞相復置と曹操政権の人事
- 夏六月、三公官を廃し、丞相・御史大夫を復置した。癸巳、曹操が丞相となった。これにより政権は一層曹操に集中した。
- 崔琰・毛玠がそれぞれ東西曹掾として選挙を司り、司馬朗は主簿、司馬懿は文学掾、盧毓は法曹議令史となった。
- 崔琰・毛玠は清廉で正しい人物を抜擢し、見かけだけの名声や党派性をしりぞけ、質実・謙退を重んじた。これによって天下の士は廉節を競い、奢侈は抑えられた。
- 曹操はこれを聞いて、用人がここまで行き届けば、人々は自ら治まるとして感嘆した。
- 司馬懿は若くして才略ありと崔琰に称えられ、曹操に召された。当初は病を理由に辞退したが、曹操が怒って捕らえようとしたため、懿は出仕した。
張遼の鎮定、趙儼の調整、馬騰の入朝
- 張遼が長社へ出発しようとした際、夜に軍中で火が出て騒乱となった。張遼は、全軍が叛いたわけではなく、首謀者が人心を驚かせただけだと見抜き、兵を落ち着かせて首謀者を誅した。
- 張遼・于禁・楽進の三将は互いに気が強く不和であったため、曹操は趙儼を三軍に参画させて調停に当たらせ、三将は親しくなった。
- 馬騰と韓遂はかつて義兄弟だったが、のちに部曲の争いから仇敵となっていた。朝廷は鍾繇・韋端に命じて和解させ、馬騰を槐里に移駐させた。
- 曹操が荊州遠征を準備すると、張既を派遣して馬騰を説得し、部曲を解いて入朝させようとした。馬騰は逡巡したが、張既は各県に準備を急がせて既成事実を作り、馬騰はやむなく東進した。
- 曹操は馬騰を衛尉に任じ、その子馬超を偏将軍として旧部を統べさせ、馬騰の家族は鄴へ移した。これは後の馬騰誅殺の伏線となる。
秋 孔融の誅殺
- 秋七月、曹操は南下して劉表を討った。
- 八月丁未、郗慮が御史大夫となった。
- 壬子、孔融が棄市となった。
- 孔融はその才名を頼みにしばしば曹操を戯弄し、発言も偏りがあってたびたび曹操の不興を買っていた。表向き曹操は容認していたが、内心では深く嫌っていた。
- 孔融はまた、王畿の内には諸侯を封じない古制に倣うべきだと上書したため、曹操は自分の根拠地拡大を牽制する意図があると疑った。
- 郗慮は孔融と不仲であり、曹操の意向を受けて罪を構成した。路粹は、孔融が北海時代に不軌を図り、孫権の使者にも朝廷を謗り、禰衡とともに放言して大逆に当たると奏した。
- こうして孔融は妻子とともに殺された。
- 京兆の脂習は孔融と親しく、以前からその剛直さが過ぎると戒めていた。孔融が死ぬと誰も遺体を収めようとしない中、脂習は進み出て屍を撫で、「文挙を失って自分だけ生きていて何になろう」と言ったため、曹操はいったん捕らえたが結局は赦した。
劉表の死と劉琮の降伏
- 劉表には劉琦・劉琮の二子がいた。後妻蔡氏は甥にあたる劉琮を愛し、劉琦を憎み、蔡瑁・張允も日々劉琦を貶して劉琮を称えた。
- 劉琦は身の危険を感じ、諸葛亮に相談した。諸葛亮は最初沈黙したが、のちに高楼に登って梯子を外した密談の場で、晋の申生と重耳の例を引き、内にいて危ういより外に出て安きを求めるべきだと示唆した。
- ちょうど黄祖が死んだので、劉琦はその後任として江夏太守となり、危地を離れた。
- 劉表が重病になると、劉琦は見舞いに帰ったが、蔡瑁・張允は父子が再び情を通じることを恐れ、門外で追い返した。劉琦は涙を流して去った。
- 劉表が死ぬと、蔡瑁・張允らは劉琮を後継に立てた。劉琮は印綬を劉琦へ送ったが、劉琦は怒って地に投げた。曹操軍到来で変乱を起こす暇もなく、江南へ走った。
- 章陵太守蒯越・東曹掾傅巽らは、逆順・強弱の大勢からみて曹操に降るべきだと劉琮を説き、劉琮もこれに従った。
- 九月、曹操が新野に至ると、劉琮は州を挙げて降伏し、節を持って出迎えた。婁圭は、それだけで真意は疑うべきでないと進言し、曹操はそのまま進軍した。
劉備の南走
- 当時、劉備は樊に駐屯していた。劉琮は降伏を告げなかったため、劉備は遅れて知り、宋忠から事情を聞いて激怒したが、別れ際に人を殺すのは恥だとして宋忠を去らせた。
- 劉備は部下と協議し、荊州を奪う案も出たが、劉表が臨終に孤児を託したのに背いて自分だけ助かることはできないとして拒んだ。
- 劉備は軍民を率いて去り、襄陽を過ぎる際には馬を止めて劉琮を呼んだが、劉琮は恐れて姿を見せなかった。襄陽の人々や劉琮の左右にも劉備に従う者が多かった。
- 劉備は劉表の墓に別れを告げて泣き、当陽に至る頃には十余万の民衆と数千両の輜重を抱えることになった。関羽には数百艘の船で江陵へ向かわせた。
- 部下の中には、江陵を先に確保するため急行を勧める者もいたが、劉備は、大事を成すには人を本とすべきであり、頼ってきた民を見捨てられないと答えた。胡三省は習鑿歯の論を引き、これを信義の発露として高く評価している。
長坂の敗走
- 劉琮の将王威は、曹操は劉琮が降り劉備が逃げたと知って油断しているはずだから、数千の奇兵で険所に邀撃すれば曹操を捕えられると説いたが、劉琮は採用しなかった。
- 曹操は江陵に軍需物資が多いことを知り、劉備に先んじられるのを恐れて輜重を捨て、精騎五千を率いて一昼夜三百余里を急行した。
- ついに当陽長坂で劉備に追いつくと、劉備は妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎とともに逃れた。軍衆と輜重は多く失われた。
- 徐庶は母が曹操に捕らえられたため、心が乱れては大業に役立てないとして劉備に別れを告げ、曹操のもとへ向かった。
- 張飛は二十騎で後衛を務め、川を背に橋を断って立ち、「自分は張益徳だ、来るなら決死を共にせよ」と叫んだため、曹操軍は近づけなかった。
- 趙雲について北へ走ったとの噂が流れると、劉備は手戟を投げつけてそれを否定した。まもなく趙雲は劉備の子劉禅を抱いて現れ、関羽の船と合流して沔水を渡った。
- 劉備は劉琦の一万余の兵と合流し、夏口へ到着した。
曹操、荊州人材を収める
- 曹操は江陵へ進み、劉琮を青州刺史・列侯とし、蒯越ら十五人も封侯した。
- 韓嵩の囚を解き、交友の礼で遇し、荊州人材の優劣を評定させたうえで、次々と登用した。韓嵩は大鴻臚、蒯越は光禄勲、劉先は尚書、鄧羲は侍中となった。
- 荊州の大将文聘は別働していたが、劉琮の降伏を聞いてもすぐには動かず、曹操が漢水を渡ると出頭した。
- 曹操が遅参を問うと、文聘は、劉表を補佐して国に奉じることも、荊州を守り抜くこともできず、恥じて早く参れなかったと涙ながらに述べた。曹操はその忠義を称え、旧兵をそのまま預けて江夏太守とした。
- 和洽・劉廙・韓暨・裴潜・王粲・司馬芝らも、それぞれ袁紹や劉表のもとを避けたり見限ったりしており、この時期に曹操の幕下へ入った。
冬十月 孫権陣営で抗曹策が固まる
- 十月癸未朔、日食があった。
- 魯粛は、劉表の死を聞くと、荊州は山川険固・沃野万里で帝王の資に足るが、今は二子不和で軍中も分裂しているとし、速やかに赴いて劉備とも連携し、曹操に対抗すべきだと孫権に進言した。
- 孫権は魯粛を派遣した。魯粛が急いで南郡へ向かった時にはすでに劉琮は降っており、当陽長坂で南走中の劉備に追いついた。
- 魯粛は孫権の意向を伝え、天下の形勢を論じたうえで、蒼梧太守呉巨に頼るより孫権と手を結ぶべきだと勧めた。劉備はこれを喜んだ。
- また魯粛は諸葛亮に、自分は諸葛瑾と親しく、共に交誼を結ぼうと語った。劉備は魯粛の策に従い、鄂県の樊口に進駐した。
諸葛亮の使者行と孫権の決断
- 曹操が江陵から東下しようとすると、諸葛亮は劉備に請うて孫権のもとへ赴き、魯粛とともに柴桑で会見した。
- 諸葛亮は、曹操はすでに百万の衆を擁し、正面から争うべきではないが、孫権がもし対抗できるなら早く決断すべきで、外は服従を装いながら内ではためらうのが最悪だと説いた。
- 孫権が、ならば劉備はなぜ曹操に仕えないのかと問うと、諸葛亮は、劉備は王室の後裔であり士人の帰望を集める人物で、もし事が成らぬならそれは天命であって、安んじて人の下には立てないと答えた。
- 孫権はこれを聞いて憤然とし、呉の地と兵をもって人に制せられることはできない、曹操に当たり得るのは劉備しかいないと語った。
- 諸葛亮はさらに、劉備・劉琦の兵でなお二万近く、曹操軍は長駆追撃で疲れ、北人は水戦に不慣れで、荊州の降兵も心服していないと説明し、今こそ呉と劉備が協力すれば鼎足の形が成ると述べた。孫権は大いに喜んだ。
張昭らの降伏論と魯粛・周瑜の主戦論
- 曹操は孫権に書を送り、罪を討つ名目で南下し、いま水軍八十万で呉に会猟しようと告げた。
- 孫権がこれを群臣に示すと、張昭らは大いに動揺し、曹操は天子を奉じ、しかも長江の軍事的優位も荊州水軍を得た今では薄れたとして、迎降を勧めた。
- ただ魯粛だけは黙し、孫権が更衣に立つと追って諫めた。魯粛は、自分のような臣なら曹操に降っても下級官から累進できるが、将軍はどこへ帰すのか、と言って、他の群議を退けるよう求めた。
- 孫権は、諸人の議は自分の期待に背くが、魯粛の見識は自分と一致すると評価した。
- そこへ番陽から周瑜が戻ると、周瑜は、曹操は名目上漢相でも実質は漢賊であり、江東は父兄以来の基盤を持ち、十分戦えると説いた。
- また北方は未だ完全に平定されず、馬超・韓遂が関西におり、曹操は騎馬を捨てて舟で争い、しかも寒中に馬草もなく、北兵は水土にも不慣れで病むだろうと、敵の弱点を具体的に挙げた。
- 周瑜は数万の精兵で夏口に進み、必ず曹操を破ると請い、孫権はこれに全面同意した。刀で机を斬って、なお迎降を説く者があればこの机と同じだと示し、会議を散じた。
- その夜周瑜は再び会い、曹操軍の実数は十五、六万ほどで、荊州兵も七、八万にすぎず、しかも疑心が強いとして、三万でも十分制圧できると述べた。
- 孫権は周瑜・魯粛と心を同じくすることを喜び、周瑜・程普を左右督として派遣し、魯粛を賛軍校尉として方略を助けさせた。
劉備と周瑜の会見
- 劉備は樊口にあって、日々斥候を水辺に出して孫権軍を待っていた。周瑜の船が見えると使者を送った。
- 周瑜は軍務を離れられないから、もし劉備が威を屈して来るなら会おうと伝えた。劉備は単船で赴いた。
- 劉備が兵数を問うと、周瑜は三万と答えた。劉備は少ないと感じたが、周瑜はそれで十分だと自信を見せた。
- 劉備が魯粛らも交えて語ろうとすると、周瑜は、軍務上勝手に呼び出すことはできない、会いたいなら別に訪ねよと応じた。劉備はその統制の厳しさに恥じ入りつつ感服した。
赤壁の戦い
- 両軍は赤壁で対陣した。
- 曹操軍にはすでに疫病があり、初戦でも不利だったため、江北へ退いて陣を敷いた。周瑜らは南岸にいた。
- 黄蓋は、敵は多く味方は少ないので持久戦は難しい、曹操が船を連結している今こそ火攻めが有効だと進言した。
- 黄蓋は蒙衝・闘艦十艘に薪と油を積み、帷幕で覆って旗を立て、後ろに走舸を繋いだうえで、降伏を装う書を曹操へ送った。
- 東南風が強く吹く中、黄蓋の船団が進むと、曹操軍の将兵は出てこれを眺め、本当に降ってくると見た。
- 船が近づくや一斉に火が放たれ、烈風に煽られた炎は矢のように走って北方の船を焼き尽くし、岸上の営塁にまで延焼した。人馬の焼死・溺死は甚大だった。
- 周瑜らは軽兵で追撃し、太鼓を震わせて攻め立てたため、曹操軍は総崩れとなった。
- 曹操は華容道から徒歩で逃れたが、ぬかるみで道が通れず、やせた兵に草を背負わせて泥に敷き、その上を騎兵が渡ったため、踏み殺された兵が多数出た。
- 劉備と周瑜は水陸から追い立て、南郡まで迫った。曹操軍は飢えと疫病でも死者が続出し、曹操は曹仁を江陵、徐晃を江陵方面、楽進を襄陽に残して北へ退いた。
赤壁後の展開
- 周瑜・程普は数万を率いて曹仁と江を隔てて対峙した。
- 甘寧は先に夷陵を取ることを願い出て成功し、その城を守った。これにより益州将の襲粛が軍を挙げて降った。孫権は一時その兵を呂蒙に付けようとしたが、呂蒙が襲粛の胆略と帰化の誠を称えて兵を返すよう求め、孫権は従った。
- 曹仁は甘寧を包囲した。諸将は兵が少ないとして救援分遣に反対したが、呂蒙は凌統を江陵に残せば十日守れると保証し、自ら周瑜・程普とともに救援に向かった。
- 呉軍は夷陵で曹仁を大破し、馬三百匹を得て引き返した。これにより将兵の士気は倍加し、周瑜はついに江北へ渡って曹仁と対峙した。
十二月 孫権、合肥を攻める
- 十二月、孫権は自ら合肥を包囲した。張昭には九江の当塗を攻めさせたが、攻略できなかった。
劉備、荊南を平定
- 劉備は劉琦を荊州刺史として推戴し、自ら南下して四郡を巡撫した。
- 武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度はいずれも降伏した。
- 廬江の営帥雷緒も部曲数万口を率いて劉備に帰順した。
- 劉備は諸葛亮を軍師中郎将とし、零陵・桂陽・長沙三郡を督させて賦税を徴収し、軍需の充実を図った。また趙雲を偏将軍・桂陽太守とした。
劉璋と張松
- 益州牧劉璋は、曹操が荊州を取ったと聞き、別駕張松を派遣して挨拶させた。張松は小柄で放縦に見えたが、見識と決断力を備えていた。
- 曹操は荊州平定と劉備撃走で得意になっており、張松を特に重んじなかった。主簿楊修は登用を勧めたが、曹操は容れなかった。
- 張松は怨んで帰国し、劉璋に曹操と絶ち、劉備と結ぶよう勧め、劉璋はこれに従った。これは後の益州争奪の端緒となる。
- 胡三省は、斉桓公が一度功を誇って諸侯の離反を招いた例を引き、曹操も一時の驕りで天下三分の契機を作ったと論じている。
田疇の再封辞退
- 曹操は田疇の功を思い返し、以前に辞退を認めたのは一人の志を成して王法を損なったと悔いて、改めて旧封を与えようとした。
- 田疇は死を誓ってまで固辞したが、曹操はなお引き受けさせようとしたため、官司は、田疇が狷介に過ぎて道を外れ小節にこだわると論じた。
- 曹丕は、子文の辞禄や申胥の逃賞になぞらえてその志を認めるべきだと主張し、荀彧・鍾繇も同意した。
- 曹操はなお侯にしたがり、親しい夏侯惇に説得させた。田疇は、盧龍塞の案内を売って褒賞に換えるようなことは義に背き、心にも愧じると涙ながらに拒んだ。
- 曹操はついに屈せず、議郎に任じるにとどめた。
曹沖の死と邴原
- 曹操の幼子倉舒(曹沖)が死に、曹操はたいへん悲しんだ。
- 司空掾の邴原の娘も早く亡くなっており、曹操は彼女を曹沖に合わせ葬ろうと望んだ。だが邴原は、未婚で死んだ者同士を婚姻扱いして葬るのは礼に反し、自分が典礼を守ることでこそ曹操に仕えている意味があると辞退した。
- 曹操もこれを聞き入れて取りやめた。
孫権、丹陽の賊を討つ
- 孫権は威武中郎将賀斉に命じ、丹陽の黟・歙の賊を討たせた。陳僕・祖山ら二万戸は林歴山に拠り、四方切り立っていて攻め難かった。
- 賀斉は密かに軽捷な兵を募って険阻から夜襲を敢行し、山上へ登って四方に散開させ、鼓角を鳴らして賊を混乱させた。大軍もこれに乗じて登り、賊を大破した。
- 孫権はこの地を分けて新都郡を置き、賀斉を太守とした。