資治通鑑漢紀五十九 孝獻皇帝 建安二十年 215年
正月:曹氏冊立
春から夏:曹操の漢中征討開始
- 三月、魏公曹操は自ら張魯討伐に向かった。武都から氐地へ入ろうとしたが、氐人が道を塞いだため、張郃・朱霊らにこれを撃破させた。
- 四月、曹操は陳倉から散関を越え、河池に進んだ。氐王竇茂は険阻を頼み、一万余を擁して服従しなかった。
- 五月、曹操はこれを攻め滅ぼした。
- 同じころ、西平・金城の諸将麯演・蔣石らは韓遂の首を斬って送り、関西の旧勢力はさらに瓦解した。
孫権と劉備の益州・荊州をめぐる対立
- 劉備がなお荊州にいたころから、周瑜・甘寧らは孫権に益州奪取を勧めていた。
- 孫権は劉備に使者を送り、劉璋は弱く、もし曹操に蜀を奪われれば荊州も危ういので、まず益州、次いで張魯を平らげて南方を統一したいと伝えた。
- 劉備は、蜀への遠征は補給が困難で、赤壁敗戦後も曹操はなお天下の大半を握っており、呉蜀が自ら争えば曹操に付け入る隙を与えるだけだと返答した。また、劉璋とは同宗を名目にしており、みだりに攻めることはできないとも述べた。
- 孫権は聞かず、孫瑜に水軍を率いさせて夏口に進ませた。
- 劉備はこれを通さず、蜀を取るなら自分は髪を乱して山に入るしかなく、天下に対して信義を失えないと主張し、関羽を江陵、張飛を秭帰、諸葛亮を南郡に配し、自ら孱陵に駐して備えた。
- 孫権はやむなく周瑜を呼び戻したが、のちに劉備が実際に西進して劉璋を襲うと、詐術だと憤った。
呂蒙の三郡奪取
- 劉備が益州を得ると、孫権は諸葛瑾を遣わし、荊州の諸郡の返還を求めた。劉備は、今は涼州を図っており、それが定まれば荊州を返すと答えた。
- 孫権は、借りたまま返す気がなく、空言で年月を引き延ばしているだけだと判断し、長沙・零陵・桂陽の三郡に独自に長吏を置いた。
- 関羽はそれらをすべて追い払ったため、孫権は怒って呂蒙に二万を授け、三郡奪取を命じた。
- 呂蒙が文書で説諭すると、長沙・桂陽は風を望んで服したが、零陵太守郝普だけは籠城した。
- 劉備はこれを聞いて蜀から公安へ出て、関羽に三郡争奪を命じた。孫権は陸口へ進んで全軍を統轄し、魯粛には一万を与えて益陽に屯させ、関羽を防がせた。
- 孫権は呂蒙に零陵を捨てて急ぎ益陽へ戻るよう書を送ったが、呂蒙はその命令を秘し、夜のうちに諸将へ作戦を授け、翌朝郝普を揺さぶった。
- 呂蒙は郝普の旧知鄧玄之を通じて、劉備は漢中で夏侯淵に囲まれ、関羽も余力がない、零陵は一日も保てず、城が破れれば老母まで災いを受けると説かせた。
- 郝普は外の情報を断たれていたため信じて降伏した。呂蒙は船に迎えて手を取り、語り終えた後で、実は劉備は公安におり関羽も益陽にいることを示す書を見せて笑った。郝普は深く恥じた。
- 呂蒙は孫河に後事を委ねてその日のうちに益陽へ向かった。
魯粛と関羽の会談、荊州再分割
- 魯粛は関羽と会見しようとしたが、諸将は危険だとして反対した。魯粛は、今は大義を明らかにすべき時であり、関羽も軽々しく自分を害せまいと述べた。
- 両軍は百歩離れて駐屯し、会見には双方とも諸将軍だけが単刀で臨んだ。
- 魯粛は関羽に対し、三郡を返さないのは義に背くと責めた。関羽は、烏林の戦いで劉備が身を挺して曹操を破ったのだから、土地を得て当然だと反論した。
- 魯粛は、当初劉備が長阪で敗れて窮地にあり、孫権が土地と兵民を惜しまず貸して危機を救ったのに、今では西州に基盤を得ながら、なお荊州全土まで併せ取ろうとしているのは、常人でも忍びない所業だと痛烈に批判した。
- 関羽は答えられなかった。
- そのころ、曹操が漢中攻撃に向かうとの報が入り、劉備は益州を失うことを恐れ、孫権に和を求めた。
- 孫権は諸葛瑾に返書させ、改めて盟を結んだ。荊州は湘水を境とし、長沙・江夏・桂陽の東を孫権、南郡・零陵・武陵の西を劉備に属させた。
- 諸葛瑾は蜀へ使いした際、弟の諸葛亮と公の場で会うだけで、退いてから私的な面会はしなかった。
秋七月:陽平関攻略
- 七月、曹操は陽平に至った。
- 張魯は漢中を挙げて降ろうとしたが、弟張衛は応じず、数万人を率いて関を守り、山沿いに十余里の城柵を築いた。
- 曹操は、降人や旧涼州関係者から、陽平城の下は南北の山が離れていて守りにくく、張魯は容易に攻められると聞かされていた。だが実地では地勢は聞いていたのと異なり、攻めにくかった。
- 山上諸屯への攻撃は難渋し、なかなか抜けず、死傷者も多く、兵糧も尽きかけた。曹操は意気阻喪し、軍を引いて山を遮りながら帰ろうとした。
- 夏侯惇・許褚に山上の兵を呼び戻させたところ、前軍が夜の暗がりで張衛の別営へ迷い込み、敵営は大混乱となって崩れた。
- 辛毗・劉曄らは、この好機を見て夏侯惇らに、すでに敵の要地を取って敵は散りつつあると告げた。惇が自ら確かめて曹操に報告すると、曹操は進撃し、張衛らは夜のうちに逃亡した。
張魯の降伏
- 張魯は陽平陥落を聞き、降伏しようとしたが、閻圃は、今すぐ降れば功が軽くなる、杜濩・朴胡を頼って抵抗した後に委質すべきだと勧めた。
- 張魯は南山を越えて巴中へ走った。
- 左右は宝貨や倉庫を焼くべきだと進言したが、張魯は、もともと国家に帰順するつもりであり、今の退去も鋒鋩を避けただけで悪意はない、財貨は国家のものだとして、封をして残して去った。
- 曹操は南鄭に入ると、その節義を高く評価し、もともと帰順の意があったとして張魯を慰撫した。
漢中攻略後、蜀進軍論と曹操の撤退
- 司馬懿は曹操に、劉備は詐術で劉璋を奪ったばかりで蜀人もまだ完全には服しておらず、しかも江陵を呉と争っている今こそ、漢中平定の勢いで益州に進めば瓦解させられると進言した。
- 曹操は、隴を得てなお蜀を望むような欲の深さを戒める言葉を引き、自重した。
- 劉曄も、劉備は人傑であるが得蜀から日が浅く、蜀人もまだ頼み切っていないので、今こそ押し潰すべきだと説いた。もし少しでも遅れれば、諸葛亮が内政を整え、関羽・張飛が外を固めて、二度と犯しにくくなると述べた。
- それでも曹操は従わなかった。
- 七日後、蜀からの降人が、蜀中では一日に何十度も驚報が飛び交うほど震えていたと語った。曹操が劉曄に、なお攻められるかと問うと、劉曄は、今や相手は少し落ち着いてしまい攻めどきではないと答えた。
- 曹操は撤退し、夏侯淵を都護将軍として張郃・徐晃らを督し漢中を守らせ、杜襲を留めて漢中の政務を監督させた。
- 杜襲は懐柔と教導に努め、洛陽・鄴へ移住を望む民八万余口を送り出した。
八月:合肥の戦い
- 八月、孫権は十万を率いて合肥を包囲した。合肥には張遼・李典・楽進が七千余で守っていた。
- 曹操は張魯征討に出る際、合肥護軍薛悌に封書を預け、敵が来た時に開けよと命じていた。そこには、孫権が来たら張遼・李典が出撃し、楽進は守り、薛悌は戦うなとあった。
- 諸将は兵数差を疑ったが、張遼は、救援を待っていてはその前に破られる、敵が整わないうちに先制して気勢を折るしかないと説いた。
- 李典は張遼と不仲だったが、国家の大事に私怨は持ち込めないとして出撃に同意した。
- 夜のうちに募兵すると、敢えて従う者は八百に達した。翌朝、張遼は自ら甲を着て戟を執り、先頭で陣へ突入して数十を殺し、敵の二将を斬って名乗りを上げた。
- 孫権は驚いて高塚へ逃れ、長戟を立てて身を守った。張遼は降りて戦えと叱ったが、孫権は動かなかった。
- 呉軍は張遼の兵が少ないのを見て数重に包囲したが、張遼は突破して麾下を救い出し、呉軍は大きく崩れた。戦いは日中まで続き、呉軍の士気は奪われた。
- 孫権は十余日囲んだが、城は落ちなかったため撤退した。
- 退却中、孫権が諸将とともに逍遙津北にいたところを張遼が急襲した。甘寧・呂蒙らが防ぎ、凌統は近習を率いて孫権を脱出させると、再び張遼に当たって部下をほとんど失い、自身も負傷した。孫権の脱出を確認してから戻った。
- 孫権は駿馬で津橋を渡ろうとしたが、橋の南側は一丈余にわたって板が外されていた。親近監谷利が、鞍を持って手綱を緩めるよう命じ、自ら後ろから鞭を加えて馬を勢いづけ、孫権は飛び越えて危地を脱した。
- 賀斉が津の南で迎え、のち船中で孫権に対し、人主たる者は軽々しく危険を犯すべきでないと涙ながらに諫めた。孫権は深く恥じ、心に刻むと誓った。
九月以後:巴賨の帰附と張魯処遇
- 九月、巴賨夷の朴胡・杜濩・任約がそれぞれ部衆を率いて劉備に帰附した。劉備は巴郡を分け、朴胡を巴東太守、杜濩を巴西太守、任約を巴郡太守とし、皆を列侯に封じた。
- 冬十月、魏では軍功者に与える名号侯が初めて設けられた。
- 十一月、張魯は家族を伴って出降した。曹操はこれを厚遇し、鎮南将軍に任じて客礼をもって接し、閬中侯に封じて万戸を与えた。五人の子や閻圃らも列侯となった。
- 程銀・侯選・龐徳らも張魯に従って降り、曹操は程銀・侯選にも旧官爵を回復し、龐徳を立義将軍に任じた。
- 黄権は劉備に対し、漢中を失えば三巴が危うく、蜀の股肱を断たれるに等しいと説いた。劉備は黄権を護軍として諸将を率いさせ、張魯を迎えさせたが、張魯はすでに降っていたため、黄権は転じて朴胡・杜濩・任約を討ってこれを破った。
- 曹操は張郃に諸軍を督させて三巴を巡行させ、その民を漢中へ移そうとした。張郃が宕渠に進むと、劉備は巴西太守張飛を派遣して対峙させた。
- 五十余日にわたる攻防ののち、張飛は張郃を奇襲して大破し、張郃は南鄭へ退いた。劉備も成都へ引き返した。
趙儼の関中鎮撫
- 曹操は、旧韓遂・馬超配下の兵五千余を移し、平難将軍殷署らに監督させた。また扶風太守趙儼を関中護軍とし、漢中守備の増援として千二百を送らせた。
- だが兵たちは出征を嫌い、趙儼が斜谷口から戻る途中で殷署の軍中に叛乱が起こった。趙儼に従う歩騎百五十も、叛兵の親類縁者が多く、不安に揺れた。
- 趙儼は落ち着いて利害を説き、情を尽くして励ますと、彼らは護軍に死生を共にすると誓った。
- 趙儼は各営の首謀者八百余を調べ上げたが、命令では主謀者だけを処罰し、その他は不問に付した。郡県が捕らえた者もすべて釈放したため、兵は相率いて帰順した。
- さらに趙儼は、関中に旧兵を残すべきだと密かに曹操へ伝え、援軍を求めた。しかし事が漏れて諸営は騒然となった。
- そこで趙儼は、新兵のうち穏当な千人だけを関中に残し、他は東へ帰すと公言した。兵籍をその場で振り分けると、残留組は趙儼に心服し、帰還組も動揺しなかった。
- 一日で出発させ、残留兵に列を組ませて監視させると、東方からの援軍も到着し、二万余口を安全に移送することができた。