資治通鑑漢紀五十七 孝獻皇帝 建安十二年 207年
春 曹操、烏桓討伐を決意
- 春二月、曹操は淳于から鄴へ帰還した。
- 丁酉、曹操は大功のあった二十余人を列侯に封じ、あわせて荀彧の功績を上表した。三月には荀彧の封戸を千戸増やし、さらに三公に任じようとしたが、荀彧が繰り返し辞退したため中止となった。
- 曹操が烏桓を討とうとすると、諸将は、袁尚はすでに敗残兵にすぎず、遠征すれば劉備が劉表を説いて許を襲うかもしれないと反対した。
- 郭嘉は、烏桓は遠方ゆえ曹操の急襲を予想しておらず、また袁尚兄弟が存命のうちに放置すれば河北が再び動揺しかねないと説き、南方の劉表は口先だけで劉備を使いこなせないから心配ないと進言した。曹操はこれに従った。
郭嘉と田疇の献策
- 軍が易に至ると、郭嘉は、千里の奇襲に輜重は妨げになるから、荷駄を残して軽装で急行すべきだと述べた。
- 田疇はもと袁紹の度重なる招聘を拒み、のちには邢顒の勧めを受けて曹操への帰順を決めた人物である。烏桓が郡の名士を多く殺したことを恨んでおり、曹操の召しに応じた。
- 曹操が無終に進んだ頃、夏の豪雨で海辺の低地はぬかるみ、さらに敵が要路を抑えていて軍は進めなくなった。曹操が田疇に問うと、田疇は、正面の道は進みにくいが、旧北平の治所平岡に通じる盧龍の古道があり、敵は大軍がそちらを来るとは思わないだろうと進言した。
- 曹操は表向きは退却するかのように道ばたへ標識を立て、夏は進軍不能なので秋冬を待つと見せかけた。敵の斥候は本当に軍が去ると思い込んだ。
夏から秋 白狼山の戦い
- 曹操は田疇を道案内にして、徐無山から白檀・平岡を経て、山を切り谷を埋めながら進み、鮮卑の地を通って柳城へ向かった。
- 敵が気づいたときにはすでに二百里を切っており、袁尚・袁熙は蹋頓、遼西単于楼班、右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎撃した。
- 八月、曹操は白狼山で敵と遭遇した。自軍の輜重は後方にあり、甲冑を着けた兵は少なく、側近たちも恐れた。
- だが曹操は高所から敵陣の乱れを見抜き、張遼を先鋒にして攻撃させると、烏桓軍は大崩れとなった。蹋頓を斬り、名王以下を多数討ち取り、胡人・漢人あわせて二十余万口を降した。
- 遼東単于速僕丸と袁尚・袁熙は遼東太守公孫康のもとへ逃れた。諸将は追撃を勧めたが、曹操は急迫すれば公孫康が彼らと結ぶ、緩めれば互いに図り合うと判断し、兵を進めなかった。
秋九月 公孫康が袁尚・袁熙を斬る
- 九月、曹操が柳城から引き揚げると、公孫康は功名を求めて袁尚・袁熙を宴に誘い、あらかじめ厩に伏せておいた精兵に捕らえさせ、速僕丸とともに斬ってその首を曹操へ送った。
- 諸将が理由を問うと、曹操は、もともと公孫康は袁氏を恐れていたので、こちらが急げば協力されるが、圧迫しなければ自ら処分するのは当然の成り行きだと答えた。
- 曹操は袁尚の首をさらし、これを哭く者は斬ると命じたが、牽招だけは祭って悲しみ、曹操はその義を認めて茂才に挙げた。
帰路の苦難と諫言への褒賞
- 遠征中は寒さと日照りで二百里のあいだ水がなく、食糧にも窮して馬数千匹を殺して食べ、地を三十余丈掘ってようやく水を得た。
- 帰還後、曹操は以前に遠征を諫めた者たちの名を調べさせたので、人々は咎められると恐れた。
- しかし曹操は逆に厚く賞し、今回の成功は危険な賭けに勝っただけで常例にはできず、諫言こそ安全な策だったと述べ、今後も遠慮なく意見するよう求めた。
冬 天変・王族の死・田疇への封賞辞退
- 冬十月、鶉尾の分野に彗星が現れた。
- 乙巳、黄巾賊が済南王劉贇を殺した。
- 十一月、曹操が易水に至ると、烏桓の代郡単于普富盧・上郡単于那楼が凱旋を祝いに来た。論功行賞で田疇に亭侯五百戸を与えようとしたが、田疇は、もとは劉虞の仇討ちのために逃れて義を立てようとしたのであり、功利のためではないとして固辞した。曹操もその志を尊重した。
劉備・孫権・諸葛亮
- 曹操の北征中、劉備は劉表に許を襲うよう勧めたが、劉表は用いなかった。曹操帰還後に劉表が悔やむと、劉備は、天下はなお分裂しており機会は尽きないと答えた。
- この年、孫権は西方で黄祖を攻め、住民を掠えて帰った。
- 孫権の母の呉氏が危篤となり、張昭らを呼んで後事を託して死去した。
- 諸葛亮は襄陽の隆中に寓居し、自らを管仲・楽毅になぞらえていた。徐庶と崔州平だけがその才を深く認めていた。
- 劉備が荊州で人物を求めると、司馬徽は「伏龍と鳳雛」がいるとして、諸葛亮と龐統を挙げた。
- 徐庶も諸葛亮を劉備に薦め、劉備は三度そのもとを訪れてようやく会見した。
- そこで劉備が漢室再興の志を語ると、諸葛亮は、曹操とは正面衝突できず、孫権とは同盟すべきであり、荊州・益州を押さえて孫権と結び、内政を整えて機変を待てば覇業が成り漢室も復興できると説いた。これがいわゆる隆中策である。
- 劉備は深く喜び、諸葛亮との親交を深めた。関羽・張飛は不満を示したが、劉備は「魚に水が要るように、自分には孔明が必要だ」と諭した。
- 司馬徽は人物を見抜く識見で知られ、龐徳公は特に名望が高かった。諸葛亮は龐徳公のもとでは牀下で拝礼したとされる。龐統も早くからこの二人に高く評価されていた。