資治通鑑漢紀五十七 孝獻皇帝 建安十一年 206年
春正月 曹操が高幹を討ち、并州を平定する
- 北斗のあたりに彗星が現れた。
- 曹操は自ら高幹討伐に出陣し、世子の曹丕を鄴の留守に置き、崔琰にこれを補佐させた。
- 曹操は壺関を三か月包囲して降伏させた。高幹は匈奴に逃れて援軍を求めたが、単于は受け入れず、高幹は少数の騎兵だけで荊州へ逃れようとして、上洛都尉の王琰に捕らえられ斬られた。
- これにより并州は完全に平定された。
梁習の并州統治
- 曹操は陳郡の梁習を別部司馬として并州刺史を兼ねさせた。
- 当時の并州は戦乱の余波で荒廃し、胡族・狄族が勢力を張り、民は逃散して異民族の部落に入り、地方豪族もそれぞれ兵を擁して害をなしていた。
- 梁習は到着すると、まず豪族たちを礼をもって招き、次第に推挙して幕府へ送り出した。その後、壮丁を徴発して義従とし、さらに諸将に分け与えて軍に組み込んだ。
- 兵が離れた後、その家族を順次鄴へ移して統制し、数万口に及んだ。命に従わない者には討伐を加え、従った者は万を数えた。
- 匈奴の単于や諸王も服属し、辺境は安定した。農桑も奨励され、政令はよく行き届き、人々は梁習を歴代屈指の良刺史と称えた。
- 梁習は、戦乱を避けて州内にいた常林・楊俊・王象・荀緯・王凌らを推挙し、曹操は彼らを県長に任じた。のちに皆名を成した。
仲長統の人物評と『昌言』
- かつて山陽の仲長統が并州で高幹に会った際、高幹には大志はあるがそれを実現する器量と人材を見る目がないと戒めた。高幹は不快に思い、仲長統は去った。
- 高幹の死後、荀彧の推挙で仲長統は尚書郎となった。
- 仲長統は『昌言』を著し、天下の治乱について論じた。おおむね、乱世では群雄が争い、天下が定まると後継の君主は安逸に流れ、私欲に溺れて政治を乱し、ついには国家は再び崩壊する、という歴史の循環を説いた。
秋 雍州刺史の殺害、海賊・叛将の討伐
- 秋七月、武威太守の張猛が雍州刺史の邯鄲商を殺したため、州兵が張猛を討って誅した。張猛は張奐の子であった。
- 八月、曹操は東方で海賊の管承を討ち、淳于に至って楽進・李典に攻撃させて破った。管承は海島へ逃れた。
- 昌豨が再び叛いたため、曹操は于禁を派遣して討たせ、これを斬った。
宗室諸王国の整理
- この年、故琅邪王劉容の子劉熙を琅邪王に立てた。
- 一方で、斉・北海・阜陵・下邳・常山・甘陵・済陰・平原の八国は廃止された。これは漢の宗室勢力を弱める流れの一環であった。
北方の烏桓と曹操の運河整備
- 烏桓は天下の乱に乗じて漢人十余万戸を支配し、袁紹はその酋長たちを単于に立て、自家の娘を娶らせて結びつきを強めていた。とくに遼西の蹋頓は強大で、袁尚兄弟と結んでしばしば塞内へ侵入し、旧地回復を助けようとしていた。
- 曹操はこれを討つ準備として、平虜渠・泉州渠を掘って輸送路を通した。
孫権、山賊を平定
- 孫権は山賊の麻保ら二つの屯を攻め、これを平定した。