春三月 日食と曹操の進路変更
- 春三月朔に日食があった。
- 曹操は安民に駐屯して兵糧を確保し、袁紹が敗れたすきに劉表を討とうとした。
- しかし荀彧は、袁紹は敗れたばかりで配下の心が離れている今こそ河北を平定すべきであり、遠く江漢へ出兵すれば、袁紹が残兵を集めて背後を突く危険があると諫めた。
- 曹操はこれを受け入れ、劉表遠征を中止した。
夏四月 曹操、倉亭で袁紹軍を破る
- 曹操は黄河沿いに兵を進め、倉亭にあった袁紹軍を攻撃してこれを破った。
秋九月 劉備、荊州へ奔る
- 曹操は許へ帰還したのち、自ら汝南の劉備を攻めた。
- 劉備は劉表のもとへ逃れ、これに呼応していた龔都らは離散した。
- 劉表は郊外まで出迎えて劉備を上客として遇し、兵を増やして新野に駐屯させた。
劉備、老いを悲しむ
- 劉備は荊州に滞在中、あるとき劉表の席を立って厠に行き、戻ってきたときに涙を流した。
- 劉表が怪しんで尋ねると、劉備は、かつては馬を離れず戦場にあったので腿の肉も落ちていたが、今は騎乗しないため肉がつき、歳月だけが過ぎて功業を立てられないことを悲しんだのだと語った。
- その志気がなお衰えていなかったことがうかがえる。
張遼、昌豨を降す
- 曹操は夏侯淵・張遼に命じて、東海で反していた昌豨を包囲させた。
- 数か月たって兵糧が尽き、撤退論が出たが、張遼は、昌豨が自分の動きを特に注視し、矢の射撃も少なくなっていることから、まだ決断できずにいると見抜いた。
- 張遼は使者を通じて対話を求め、自ら曹操の威徳と帰順者への厚遇を説いた。
- 昌豨はついに降伏を約し、張遼は単身で山上のその家に入り、妻子にも面会して安心させたうえで、昌豨を伴って曹操のもとへ連れて行った。
- 曹操はのちに昌豨を帰した。
益州 趙韙の乱が鎮圧される
- 趙韙は成都で劉璋を包囲したが、東州人たちが誅滅を恐れて死力を尽くして戦ったため敗退した。
- 追撃は江州に及び、趙韙はそこで殺された。
- 危険を冒して幸運を求めた末の最期であった。
龐羲と程畿
- 龐羲は乱後、自身にも疑いが及ぶのを恐れ、属吏の程祁を父の漢昌令・程畿のもとへ遣わし、賨兵の徴発を求めた。
- 程畿は、郡の兵はもともと反乱のためにあるのではなく、たとえ讒言があっても誠を尽くすべきであり、もし異志があるなら命には従えないと拒んだ。
- 龐羲が重ねて説得させても、程畿は牧である劉璋から受けた恩に対し節を尽くすべきだとし、不義には死んでも従わぬと断言した。
- 龐羲が「従わねば家に禍が及ぶ」と脅しても、程畿は、大義の前には父子の情さえ越えるべきだとして屈しなかった。
- ついに龐羲は劉璋へ厚く謝罪し、劉璋は程畿を江陽太守に抜擢した。
朝廷、益州の混乱に対応
- 朝廷は益州の乱を聞き、五官中郎将の牛亶を益州刺史に任じ、劉璋を九卿に徴した。
- しかし劉璋はこれに応じなかった。
張魯の漢中支配
- 張魯は鬼道によって民を教化し、病人には自らの過失を告白させ、祈禱を行った。
- 実際に病を治す効き目は乏しかったが、愚かな民衆はこぞってこれに従った。
- 罪を犯した者には三度まで赦しの機会を与えてから刑に処し、通常の長吏を置かず、祭酒に地域統治を任せた。
- 民や異民族にとっては都合がよく、流民もその地に寄ればこの教えに従わざるを得なかった。
- やがて張魯は巴郡を奪ったが、朝廷には討つ力がなく、張魯を鎮民中郎将・漢寧太守に任じ、貢納を受けるだけにとどまった。
閻圃、張魯の王号を諫める
- 地中から玉印が出たため、張魯の部下たちは漢寧王に推戴しようとした。
- 功曹の閻圃は、漢中は十万戸を擁し、財貨も豊かで土地も肥え、四方は険阻で守りやすいと述べた。
- そのうえで、上は天子を助けて斉桓公・晋文公のような功を立てることも、次いでは竇融のように富貴を失わぬこともできるが、今は独自に官を任命するだけで十分であり、早々に王を称するのは禍の先導になると諫めた。
- 張魯はその意見に従った。