春正月 曹操、譙から官渡へ
- 曹操は譙に駐屯し、さらに浚儀へ進んで睢陽渠を修治した。
- また使者を遣わして太牢を供え、かつて自分を見出した橋玄を祭った。
- その後、官渡へ進軍した。
袁紹の死と後継争い
- 袁紹は軍敗の恥辱と憤りから病み、吐血して夏五月に死んだ。
- 袁紹には譚・熙・尚の三子がいたが、後妻の劉氏は尚を偏愛し、しばしば袁紹に推した。
- 袁紹は明言こそしなかったが、長子の譚を兄の後継にまわして青州刺史として外に出し、後継から遠ざけた。
- 沮授は、後継が定まらぬまま長子を外に出せば禍の始まりになると諫めたが、袁紹は諸子それぞれに州を与えて力量を見たいとして、熙を幽州、外甥の高幹を并州に置いた。
- 袁紹の死後、譚に憎まれていた逢紀・審配らは、譚が立てば辛評・郭図らの一派に害されることを恐れ、袁紹の遺命を偽って尚を後継とした。
- 譚は即位できず、自ら車騎将軍を称して黎陽に屯したが、尚は兵をあまり与えず、逢紀を付き添わせるのみであった。
- 譚がさらに兵を求めても審配らは拒み、怒った譚は逢紀を殺した。
秋九月 曹操、袁譚を攻める
- 曹操は黄河を渡って袁譚を攻めた。
- 譚は尚へ急を告げ、尚は審配を鄴に残して自ら援軍に赴いた。
- 両軍は曹操と連戦したが、譚・尚はたびたび敗れて退き、城を固守した。
河東戦線 郭援・高幹・南匈奴の連携
- 袁尚は、任命した河東太守の郭援に高幹・南匈奴単于と協力させ、河東を攻めさせた。
- さらに使者を関中へ送り、馬騰ら諸将と連携しようと図った。
- 河東の諸城は次々と降り、賈逵の守る絳も激しく攻められた。
- 父老は郭援に賈逵の命を保証させて開城したが、郭援は賈逵を将として使おうと兵で脅した。
- 賈逵は、国家の長吏が賊に向かって叩頭することなどありえないと拒絶したため、殺されそうになった。
- 城中の吏民は、約束を破って賢者を殺すなら自分たちもともに死ぬと叫び、郭援は賈逵を壺関の土窖に幽閉するにとどめた。
- その後、祝公道という人物が夜中にひそかに賈逵を救い出し、名も告げずに逃がした。
鍾繇・張既・傅幹、馬騰を曹操側へ引き込む
- 曹操は司隷校尉の鍾繇に命じて、平陽の南匈奴単于を包囲させた。
- 郭援が到着すると、鍾繇は新豊令の張既に馬騰の説得を命じた。
- 馬騰は迷っていたが、傅幹が、曹操は天子を奉じて暴乱を討つ順道の人であり、袁氏は胡族を引き入れて中国を凌ぐ逆徳の徒だと論じた。
- さらに、今ここで郭援を討てば袁氏の片腕を断ち、曹操から重く報いられると説いた。
- 馬騰はこれに動かされ、子の馬超に一万余の兵を与えて鍾繇に合流させた。
汾水で郭援敗死
- 諸将の多くは郭援の兵勢を恐れ、平陽包囲を解いて退くべきだとした。
- しかし鍾繇は、ここで退けば関中諸将に弱さを示し、かえって内応を招くと反論した。
- また郭援は剛愎で勝ちを急ぐから、汾水を渡る途中で攻めれば大勝できると見た。
- 郭援は果たして諫止を聞かず汾水を渡り、半ばで鍾繇に撃破された。
- 戦後、郭援の首はすぐには見つからなかったが、のちに馬超の校尉である龐徳が矢袋からその首を差し出した。
- 鍾繇は、郭援は甥だが国賊であるとして、龐徳に謝る必要はないと述べた。
- 南匈奴単于もついに降伏した。
劉備、葉に進み夏侯惇らを破る
- 劉表は劉備に北進を命じ、劉備は葉まで進出した。
- 曹操は夏侯惇・于禁らを派遣してこれを防がせた。
- 劉備はある朝、陣に火を放って退いた。
- 夏侯惇らは追撃したが、裨将軍の李典は、理由なく退くのは伏兵がある証であり、道も狭く草木が深いので追ってはならないと諫めた。
- 夏侯惇らは聞かず、李典だけを留守させて進むと、果たして伏兵に遭って大敗した。
- 李典が救援に赴いたため、劉備は退いた。
曹操、孫権に人質を要求
- 曹操は孫権に子弟を人質として差し出すよう命じ、孫権の反応をうかがった。
- 孫権が群臣を集めると、張昭・秦松らは決断できなかった。
- 孫権は周瑜を母の呉夫人のもとへ連れて行って相談した。
- 周瑜は、楚ももとは小国から興り、賢明な後継によって荊・揚を兼ねる大国となったと説き、孫権もまた父兄の遺産と六郡の衆を継ぎ、兵糧・銅・塩に恵まれた江東を持つのだから、なぜ人質を送って曹氏の統制下に入る必要があるのかと論じた。
- いったん人質を送れば、召されれば従わざるを得ず、侯に封ぜられても孤を称して南面する今には到底及ばぬとした。
- 曹操が義をもって天下を正すなら臣従しても遅くないが、もし暴乱を図るなら自滅に暇なく、他人を害する余裕はないとして、ひとまず様子を見るべきだと勧めた。
- 呉夫人もこれに賛成し、周瑜を兄として遇せよと孫権に言った。
- 孫権はついに人質を送らなかった。