資治通鑑漢紀五十五 孝獻皇帝 建安五年 200年
春正月:董承誅殺、曹操東征
- 春正月、董承の密謀が漏れ、壬子、曹操は董承・王服・种輯を殺し、その三族を誅した。
- 曹操は自ら劉備を討とうとした。諸将は、天下を争う本敵は袁紹であり、今東へ向かえば袁紹に背後を突かれると止めた。
- しかし曹操は、劉備は人傑であり、今討たねば将来の大患になると断じた。
- 郭嘉も、袁紹は優柔不断で行動が遅く、劉備は新たに立ってまだ衆心が固まっていないから、急襲すれば必ず破れると進言した。
- これを受け、曹操は東征を決行した。
- 冀州別駕の田豊は袁紹に対し、曹操が劉備と戦っている隙にその背後を衝けば一挙に定められると説いたが、袁紹は子の病を理由に出兵しなかった。
- 田豊は機会を失ったと嘆いた。
曹操、劉備を破る
- 曹操は劉備を撃破し、妻子を捕え、さらに下邳を抜いて関羽を生け捕りにした。
- 昌豨も撃ち破られた。
- 劉備は青州へ逃れ、袁譚を通じて袁紹のもとへ帰した。袁紹は鄴から二百里も出迎えて厚遇し、離散していた劉備の兵も次第に帰集した。
袁紹、ついに南下を決定
- 曹操が戻って官渡に拠ると、袁紹は許攻めを議した。
- 田豊は、もはや許は空虚ではなく、曹操は少数でも軽視できないから、山河の守りと四州の兵糧を頼みに長期戦へ持ち込み、奇兵で河南を攪乱して三年ほどで勝つべきだと再度諫めた。
- 袁紹は聞き入れず、強く諫めた田豊を、軍心を沮喪させるとして拘禁した。
- 二月、袁紹は州郡に檄文を回して曹操の罪を数え、黎陽へ進軍した。
- 沮授は出発に際し、宗族を集めて財産を分け与えた。勝てば威勢は増すが、敗れれば身一つも保てないとして、袁紹軍の敗北を予見した。
程昱の少兵守備
- 振威将軍の程昱は七百人で鄄城を守っていた。
- 曹操は二千の増兵を与えようとしたが、程昱は、少兵であれば袁紹は軽んじて攻めず、もし増兵すれば無視できなくなって攻めてくる、として固辞した。
- 袁紹は実際に兵少を聞いても攻めず、曹操は賈詡に、程昱の胆力は孟賁や夏育をも超えると称賛した。
顔良討伐と白馬救援
- 袁紹は顔良を白馬に遣わし、東郡太守劉延を攻めさせた。
- 沮授は、顔良は気が狭く短気で、勇猛でも単独任務には向かないと諫めたが、袁紹は従わなかった。
- 夏四月、曹操は白馬救援に北上した。
- 荀攸は、兵力では劣るので敵を分散させる必要があるとして、延津へ向かって河を渡る構えを示し、袁紹軍を西へ引きつけた後、軽兵で白馬を急襲すべきだと献策した。
- 曹操がこれに従うと、袁紹は西方対応のため軍を分けた。
- 曹操は兼行して白馬へ迫り、顔良を不意に襲った。張遼・関羽が先鋒となり、関羽は敵中に突入して顔良を刺し、その首を斬って帰った。袁紹軍は防げず、白馬の囲みは解けた。
- 曹操は住民を河に沿って西へ移した。
延津の戦いと文醜の死
- 袁紹は河を渡って追撃した。沮授は、白馬の勝敗だけで深追いせず、延津に本隊を留め、官渡にも兵を分けて、もし変事があっても対応できるようにすべきだと諫めたが、袁紹は聞かなかった。
- 沮授は黄河を前にして、このままでは自分は生きて戻れまいと嘆き、病を理由に退こうとしたが許されず、かえって不興を買ったうえ、部下まで取り上げられて郭図の配下に付された。
- 袁紹軍が延津南に至ると、曹操は南の坂の下に陣を敷いた。
- 物見が袁紹の騎兵を報告したが、曹操は馬を解いて待たせ、白馬からの輜重を餌として敵を誘った。
- 文醜と劉備の騎兵五六千が迫り、その一部が輜重に向かうと、曹操は六百にも満たぬ騎兵で突撃し、大破して文醜を斬った。顔良・文醜という袁紹の名将を二戦で失い、袁紹軍の気勢は大いに挫けた。
関羽、曹操を辞して劉備へ
- 曹操は関羽の人物を高く評価していたが、その心が長く留まるまいと見て、張遼に本心を問わせた。
- 関羽は、曹操の厚遇は深く理解しているが、劉備の恩に報いてともに死ぬと誓った以上、背くことはできない、ただし去る前に一功を立てて恩に報いたいと答えた。
- 曹操はその義心をよしとした。
- 顔良討伐の後、曹操は関羽が必ず去ると知って厚く褒賞したが、関羽は賜物を封じて書を残し、袁紹軍中の劉備のもとへ奔った。
- 左右は追撃を願ったが、曹操は、それぞれ主君のために尽くしているだけだとして追わせなかった。
幽州方面の帰服
- 閻柔は使者を曹操に送り、曹操は彼を烏桓校尉に任じた。
- 鮮于輔は自ら官渡で曹操に会見し、右度遼将軍を授けられて幽州へ戻り、その地の鎮撫にあたった。
陳登と孫策の対立、孫策暗殺
- 広陵太守陳登は射陽を治所としていた。孫策が西方で黄祖を攻めている隙に、厳白虎の残党を誘って背後攪乱を図った。
- 孫策は黄祖攻撃から戻ると陳登討伐に向かい、丹徒まで軍を進めたが、兵糧の到着を待っていた。
- 以前、孫策は呉郡太守許貢を殺していた。許貢の門客三人は民間に潜み、仇討ちの機会をうかがっていた。
- 孫策は狩猟を好み、しばしば少数で駆け回っていたため、護衛の騎兵が追いつけないことがあった。
- ある日、突然その三人に遭遇して頬を射られ、後続の騎兵が彼らを刺し殺したものの、孫策の傷は重かった。
- 孫策は張昭らを呼び、中国の大乱を前に、呉越の兵と三江の地勢をもって成敗を観ることができるから、弟の孫権をよく補佐してほしいと託した。
- 孫権には印綬を帯びさせ、戦場で機を決して天下と争う才は自分に及ばぬが、賢者を用いて江東を保つことでは自分より勝ると告げた。
- 丙午、孫策は二十六歳で死んだ。
- 孫権は悲しみのあまり政務を見られなかったが、張昭は今は泣く時ではないと励まし、服を改めさせて騎乗させ、軍中を巡らせた。張昭は群僚を率いて朝廷へ上表し、内外の将校に職務を守らせた。
- 周瑜も巴丘から兵を率いて喪に赴き、そのまま呉に留まって中護軍となり、張昭とともに軍政を取り仕切った。
- この時点で孫氏は会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬江・廬陵を有していたが、険阻の地にはなお従わぬ勢力が残り、流寓の士も去就未定だった。それでも張昭・周瑜らは孫権に大業を成す器を認め、心を尽くして仕えた。
秋七月:南陽王の死
- 秋七月、皇子の劉馮が南陽王に立てられたが、壬午に薨去した。
汝南の動揺と李通・趙儼
- 汝南の黄巾である劉辟らが曹操に叛き、袁紹に呼応した。袁紹は劉備に兵を与えてこれを援けさせ、諸郡県の多くもこれに応じた。
- 袁紹は陽安都尉李通に征南将軍の号を授けようとし、劉表もひそかに誘ったが、李通はいずれも拒み、袁紹の使者を斬って印綬を曹操に送った。
- 李通は戸調の綿絹を急ぎ徴発しようとしたが、朗陵長の趙儼は、周辺が叛く中で負担を急増させればかえって動揺すると諫めた。
- 李通は、逆に徴発を怠れば自分が去就を迷っていると見られると答えた。
- 趙儼は荀彧に書を送り、陽安は忠節を守っているのだから慰撫して勧善すべきであり、さらに収奪してはならぬと訴えた。荀彧は曹操に報告し、綿絹を民に返させた。
- 上下とも喜び、郡内は安定した。李通は瞿恭ら諸賊を破り、淮水・汝水一帯を平定した。
何夔の緩政論
- 曹操は新たな法令を施行し、州郡への規制を厳しくし、綿絹の調達も急いでいた。
- 長広太守何夔は、辺遠で新たに帰附した郡には軽い法と柔軟な治政が必要であり、小事は長吏に裁量を持たせ、三年ほど民業を安定させてから法を整えるべきだと上言した。
- 曹操はこれを採用した。
劉備、再び汝南へ
- 劉備は汝南・潁川の間を攻略し、許以南の吏民は不安に陥った。
- 曹操がこれを憂えると、曹仁は、袁紹軍の兵を借りたばかりの劉備はまだその兵を使いこなしておらず、撃てば破れると進言した。
- 曹操は曹仁に騎兵を与えて討たせ、劉備を破走させ、叛いていた諸県をことごとく回復した。
- 劉備は袁紹のもとへ戻ったが、内心では離反を考え、袁紹に対して南方で劉表と結ぶべきだと説いた。
- 袁紹は劉備に旧兵を与えて再び汝南へ向かわせ、劉辟・龔都らと合流させた。兵は数千に達した。
- 曹操は蔡楊を遣わして撃たせたが、蔡楊は劉備に殺された。
八月以後:官渡の対峙
- 袁紹軍は陽武に進み、沮授は、北兵は多くても精強さで南軍に劣り、南軍は食糧に乏しいが蓄積は北に及ばないので、南は急戦を望み、北は持久戦に利があるとして、ゆっくり構えるべきだと説いた。
- 袁紹は従わず、八月、沙塠に沿って東西数十里の陣を構えた。曹操も分営してこれに対した。
- 九月庚午朔、日食があった。
- 曹操は出兵して袁紹と戦ったが勝てず、退いて堅壁した。
- 袁紹は高い櫓と土山を築き、そこから曹操の陣中へ矢を射込んだ。曹操軍は楯を被って移動した。
- 曹操はこれに対し、投石機を作って袁紹の楼櫓を打ち壊した。
- 袁紹がさらに地道で侵攻すると、曹操は内側に長い塹壕を掘って防いだ。
官渡の危機と荀彧の激励
- 曹操軍は兵が少なく、食糧も尽き、兵士は疲労し、民衆も賦役に苦しんで袁紹へ走る者が多かった。
- 曹操は荀彧に書を送り、いったん許へ退いて袁紹を誘い出すべきか相談した。
- 荀彧は、袁紹は全軍を官渡に集めて勝敗を決しようとしており、ここで弱勢の曹操が支えきれなければ天下の帰趨が決まると答えた。
- さらに、楚漢が滎陽・成皋で対峙した時も、先に退けば勢いが折れるため双方とも退かなかったことを引き、今こそ地を画して守り、袁紹の喉を締めて半年抑え込んでいるのだから、情勢が尽きて変化の生まれる時を逃してはならないと励ました。
- 曹操はこれに従い、堅守を続けた。
- 曹操は輸送兵たちをなでて、「あと十五日退ければ袁紹を破り、もう苦労させぬ」と声をかけた。
徐晃、韓猛の輸送隊を撃破
- 袁紹は数千乗の糧車を官渡へ送った。
- 荀攸は、その将の韓猛は鋭いが軽敵だから襲えば破れると述べ、徐晃が適任だと進言した。
- 曹操は偏将軍徐晃と史渙を遣わしてこれを邀撃し、韓猛を破走させ、輜重を焼いた。
十月:許攸の奔走と烏巣奇襲
- 冬十月、袁紹は再び車で糧食を送り、淳于瓊らに一万余を率いさせて護送し、袁紹本営の北四十里で宿営させた。
- 沮授は、蔣奇に別働隊を持たせ、外から曹操軍の抄掠を断つべきだと説いたが、袁紹は従わなかった。
- 許攸も、曹操が全軍をもって正面に出ている以上、許は手薄なはずだから、軽兵で急襲して天子を奉じれば曹操を挟撃できると献策したが、袁紹は「まず曹操本隊を取る」と言って退けた。
- ちょうど許攸の家が法に触れ、審配に捕らえられたため、許攸は怒って曹操のもとへ奔った。
- 曹操は裸足で出迎え、来訪を大いに喜んだ。
- 許攸が兵糧の残量を問うと、曹操は初め冗談で多めに答えたが、実際は一か月分しかないと明かした。すると許攸は、袁紹の輜重は故市・烏巣に万余乗あり、守りも厳重ではないから、軽兵で夜襲して焼けば三日で袁紹軍は自壊すると説いた。
- 曹操は大いに喜び、曹洪・荀攸に本営を守らせ、自ら歩騎五千を率いて袁紹軍の旗印を用い、馬の口を縛り、兵に薪束を持たせて夜の間道を進んだ。
- 道中で誰何されると、「袁公が曹操の後軍襲撃を恐れ、増援を送るのだ」と偽って通過した。
- 烏巣に着くと、ただちに包囲して火を放った。夜が明けるころ淳于瓊らは曹操軍の少数を見て営外に陣したが、曹操は急撃して押し返し、さらに営を攻めた。
袁紹軍総崩れ
- 袁紹は曹操が淳于瓊を攻めたと聞き、たとえ瓊が破られても、自分が曹操本営を抜けば敵は帰る場所を失うとして、高覧・張郃らに曹操本営を攻めさせた。
- 張郃は、曹操の精兵が烏巣へ向かった以上、淳于瓊救援が先決だと主張したが、郭図が本営攻撃を強く唱えた。
- 袁紹は軽騎のみを烏巣に差し向け、主力で曹操本営を攻めたが落とせなかった。
- 一方、烏巣では袁紹の救援騎兵が近づいたと報告されたが、曹操は「賊が背後まで来てから知らせよ」と怒り、兵に死戦を命じた。
- その結果、淳于瓊らを大破・斬殺し、糧穀をことごとく焼き払った。曹操軍は千余の兵の鼻を削ぎ、牛馬の唇や舌を切り取って袁紹軍に示したため、袁紹軍は大いに恐れた。
- 郭図は自分の策の失敗を恥じ、張郃をさらに讒言した。張郃は怒りと恐怖から高覧とともに攻城具を焼き捨て、曹操に降った。
- 曹洪は受け入れを疑ったが、荀攸は、計が用いられず怒って来たのだから疑うことはないと述べ、これを受納させた。
- これにより袁紹軍は驚き乱れて総崩れとなった。袁紹と袁譚らは幅巾をかぶって馬で逃れ、わずか八百騎で黄河を渡った。
- 曹操は追撃しきれなかったが、輜重・図書・珍宝をすべて収め、降兵はことごとく坑殺した。前後の殺害は七万余に及んだ。
沮授の最期
- 沮授は袁紹に従って河を渡れず、曹操軍に捕えられた。
- 彼は大声で、自分は降伏したのではなく捕えられたのだと言い放った。
- 曹操は旧交をもって迎え、どうしてここまで隔絶することになったのかと語った。
- 沮授は、冀州が策を失って自ら北へ敗走したのであり、自分は力が尽きて捕えられることも予想していたと答えた。
- 曹操が、いま世はなお乱れているからともに計を図ろうと言うと、沮授は一族が袁氏に命を懸けているので、速やかな死こそ幸いだと述べた。
- 曹操はいったん赦して厚遇したが、沮授が袁氏のもとへ帰ろうと図ったため、ついに殺した。
曹操、反側を赦す
- 曹操は袁紹の文書の中から、許都や自軍中の人々が袁紹と通じた書簡を見つけた。
- しかしこれをすべて焼き捨て、「袁紹があれほど強大だった時、自分ですら身の安全を保てなかったのだから、他人が心を動かしたのも無理はない」と言った。
袁紹の敗走と田豊の死
- 冀州の城邑の多くが曹操に降った。
- 袁紹は黎陽の北岸へ逃れ、将の蔣義渠の営に入り、自分の首級を預けると泣きついた。義渠は帳中を空けて容れ、袁紹の生存を布告したので、兵は次第に戻った。
- ある者が田豊に、今こそ重んじられるだろうと言うと、田豊は、袁紹は表面は寛でも内心は猜疑が深く、自分はたびたび直言して逆らったので、勝てばまだ助かる余地もあったが、敗れた今は怒りが噴き出して生きられまいと語った。
- 軍士たちは、田豊がいればここまでの敗北にはならなかったと泣いた。
- 袁紹が逢紀に、田豊だけは以前から異論を唱えていたので今会うのが恥ずかしいと言うと、逢紀は、田豊は将軍の敗走を聞いて手を打って笑い、自分の言が当たったことを喜んでいると告げた。
- 袁紹はこれを信じ、ついに田豊を殺した。
- 曹操は、田豊が従軍していないと聞いた時には袁紹敗北を確信し、敗走後には、もし袁紹が田豊の策を用いていたら勝敗はまだわからなかったと言った。
審配への疑念
- 審配の二子が曹操に捕えられたため、袁紹の将孟岱は、審配は一族が大きく兵も強く、子も南方にいる以上、反心を抱くに違いないと進言した。郭図・辛評も同調した。
- 袁紹は孟岱を監軍として鄴に派遣し、審配に代えて守らせようとした。
- 逢紀は審配と仲が悪かったが、国家のこととして答え、審配は烈直の性で、子が曹操側にいても不義には走るまいと保証した。
- 袁紹はそれを採って審配を罷めなかった。以後、審配はかえって逢紀と親しくなった。
- その後、冀州の叛城は袁紹が徐々に討ち定めた。
- 袁紹は普段は寛雅で器量もあり、喜怒を顔に出さなかったが、自尊心が強く頑迷で、人の善言を容れないために敗れたと総括される。
冬十月:星変
- 冬十月辛亥、大梁の分野に彗星が現れた。
揚州の再編と劉馥
- 廬江太守李術は揚州刺史厳象を攻めて殺した。
- 廬江の梅乾・雷緒・陳蘭らも江淮の間でそれぞれ数万の衆を集めていた。
- 曹操は沛国の劉馥を揚州刺史に任じた。
- 当時、揚州で曹操が実効支配していたのは九江だけだった。劉馥は単馬で合肥へ入り、空城に州治を建てた。
- 梅乾・雷緒らを招撫すると、彼らは相次いで貢ぎ物を送り、数年のうちに恩化が大いに行き渡り、流民も数万単位で帰ってきた。
- 劉馥は屯田を広げ、堤や堰を築き、官民に蓄えを持たせ、諸生を集めて学校を立て、さらに高い城塁と木石の備えを重ねた。
孫権の継承と張紘・魯粛
- 曹操は孫策の死を聞き、喪に乗じて攻めようとしたが、侍御史張紘は、喪に乗じるのは古義に反し、失敗すれば深い怨みと決裂を残すだけだと諫めた。
- 曹操はこれを容れ、孫権を討虜将軍・会稽太守に任じた。
- さらに張紘を会稽東部都尉として江東へ戻し、孫権を補佐させた。
- 呉太夫人は孫権の年少を憂い、張紘と張昭に後事を委ねた。張紘は不足を補い過失を正すことに努めた。
- 呉太夫人が董襲に江東の安危を問うと、董襲は、地の利があり、孫策の恩徳が民に残り、孫権も基業を継ぎ、張昭が政務を執り、自分たちが爪牙となる以上、心配はいらないと答えた。
- 孫権が張紘を任地へ出すと、北方から任命されて帰ってきた者だから真意を疑う声もあったが、孫権は意に介さなかった。
- 魯粛は北へ帰ろうとしていたが、周瑜は孫権こそ補佐すべき主だとして引き留め、これを孫権に推薦した。
- 孫権は魯粛と対座して酒を飲みながら、漢室危急の中で桓公・文公のような功業を望むが、どう助けるかと問うた。
- 魯粛は、高祖が義帝を尊んでも項羽が妨げたように、今の曹操は項羽にあたり、孫権が桓文の業をそのままなぞることはできないと答えた。
- そして、漢室の再興も曹操の急速な排除も難しい以上、江東を保って天下の変を観、北方多事の隙に黄祖を滅ぼし、さらに劉表を討って長江流域を押さえるのが王業の道だと説いた。
- 孫権は表向きは漢室補佐を言いながらも、魯粛を深く重んじるようになった。張昭は魯粛を若く粗疎だと貶したが、孫権はますます厚遇し、その財力も旧に準じるほど与えた。
- 孫権は弱小の諸将の兵を整理統合し、別部司馬の呂蒙の軍が整っているのを見て、その兵を増やして寵任した。
- 功曹の駱統は、孫権に対し、賢者を尊び、士を接し、宴会の日ごとに一人ずつ進ませて生活状況や志向を聞き、心から諭して人材を見抜くべきだと勧めた。孫権はこれを用いた。
孫輔の密書と李術討伐
- 廬陵太守孫輔は、孫権では江東を保てないと恐れ、ひそかに曹操へ書を送った。使者がこれを告げたため、孫権は孫輔の親近をみな斬り、部曲を分け、孫輔を東方へ移して幽閉した。
- 曹操は華歆を徴して議郎・司空軍事参画とした。
- 廬江太守李術は孫権に服さず、逃亡者を多く受け入れていた。孫権はその不法と、厳象殺害の罪を曹操に訴え、李術が救援を求めても受け入れないよう願い出た。
- 孫権は皖城を攻め、李術は曹操に救援を求めたが、曹操は応じなかった。
- 孫権は城を屠り、李術の首を梟し、その部曲二万余を移住させた。
荊州・益州の動揺
- 劉表は張羡を長年攻めたが落とせなかった。曹操は袁紹と対峙中で援けられず、張羡が病死すると、長沙ではその子張懌が立てられた。
- 劉表はさらにこれを攻め、零陵・桂陽も平定した。
- この時点で劉表は数千里の地を有し、帯甲十余万を擁する大勢力となったが、朝廷への職貢を怠り、郊祀や服用も天子に僭した。
- 張魯は劉璋が暗愚で柔弱なのを見て、もはや従うのをやめ、別部司馬張修を襲って殺し、その兵を併せた。
- 劉璋は怒って張魯の母と弟を殺したため、張魯は漢中に拠って劉璋と敵対した。
- 劉璋は中郎将龐羲を派遣して攻めさせたが勝てず、龐羲を巴郡太守として閬中に屯させ、張魯に備えさせた。
- 龐羲は漢昌の賨民を徴して兵とした。これを劉璋に讒する者があり、劉璋は龐羲を疑った。趙韙はたびたび諫めたが聞き入れられず、恨みを抱いた。
- もともと南陽・三輔から益州へ流入した数万家を、劉焉は東州兵として編成していた。劉璋は温厚だが威略に乏しく、東州人が在地民を侵暴しても抑えられなかった。
- 趙韙は以前から人望があり、益州士民の怨みを利用して反乱を起こし、数万を率いて劉璋を攻めた。さらに荊州に厚く賂を贈って連携し、蜀郡・広漢・犍為もこれに応じた。