資治通鑑漢紀四十九 孝靈皇帝上之下 熹平四年 前400年

春三月 石経の建立

  • 皇帝は諸儒に命じて五経の文字を校正させ、議郎の蔡邕に古文・篆書・隷書の字体で石に刻ませ、太学門外に立てた。
  • 後学の基準を一定にすることが目的で、碑が立つと見学や模写に来る者で街路が車馬であふれた。

三互法と蔡邕の批判

  • 以前から、州郡の長官が地縁・婚姻で私党を作るのを防ぐため、婚姻関係にある者や同州出身者が互いに監督官となることを禁じていた。
  • さらに三互法が加わって禁忌が細かくなり、幽州・冀州では長く長官が決まらない事態になった。
  • 蔡邕は、辺境の要地が空官のままなのは弊害が大きいとして、過度の忌避規定を緩め、才能本位で登用すべきだと上奏したが、朝廷は従わなかった。

司馬光の評

  • ここで司馬光は、国が乱れると禁令ばかり増えて本末が転倒すると論じる。人を正しく選んで賞罰を明らかにすれば法令は煩雑でなくて済むが、衰世では細則が増え、かえって奸人を利し善人を妨げると評している。

任城王の封建

  • 河間王建の孫の劉佗が任城王に封ぜられた。

夏 災異と辺境事件

  • 四月、郡国七か所で大水があった。
  • 五月、天下に大赦があった。
  • 延陵で火災が起きた。
  • 鮮卑が幽州を侵し、六月には弘農・三輔で蝗害が発生した。
  • 于窴王安国が拘弥を攻めてその王を殺したが、戊己校尉と西域長史が兵を出して拘弥王子の定興を立てた。国の人口はわずか千人ほどであった。