資治通鑑漢紀四十九 孝靈皇帝上之下 熹平六年 前398年
春夏 旱蝗と官吏の査察
- 正月、天下に大赦があった。
- 四月、大旱となり、七州で蝗害が起きた。
- 皇帝は三公に命じて、苛酷・貪汚な長吏を調べて罷免させた。
- 平原相の陽球は厳酷すぎるとして廷尉に召されたが、以前に九江で賊討伐の功があったため、特に赦されて議郎となった。
鮮卑の侵攻と宣陵孝子
- 鮮卑が東西北の三方の辺境を侵した。
- 市井の小民が桓帝陵への孝行者を装って集まり、数十人が「宣陵孝子」と称されたため、皇帝は皆を太子舎人に任じた。
秋 劉逸の罷免と鴻都門学
- 七月、司空の劉逸が罷免され、陳球が司空となった。
- 皇帝は文学を好み、自ら『皇羲篇』五十章を作り、文章や賦に巧みな者を鴻都門下に召した。書簡・書法・鳥篆などの技芸者も数十人に及んだ。
- 侍中祭酒の楽松・賈護らは、徳行よりも権勢に媚びる者や卑俗な話題を好む者を推挙し、皇帝は彼らを破格に優遇した。
蔡邕の封事
- 群臣に政務の要点を述べさせた際、蔡邕は次のように上奏した。
- 郊祀・宗廟・養老・辟雍などの大礼が、宮中の出産や些細な穢れを理由にたびたび廃されるのは本末転倒であり、旧制どおり行うべきだとした。
- また、取士の本は経学・徳行にあるのに、今は辞賦や書画の小技で人を取るようになり、真に国を治める人材が選ばれていないと批判した。
- さらに「宣陵孝子」に混じって犯罪者まで入り込んでいると指摘し、太子官属には徳ある者を選ぶべきで、こうした者は郷里へ帰すべきだと論じた。
- これを受けて皇帝は北郊迎気と辟雍の礼を親行し、宣陵孝子の太子舎人も県の丞・尉へ改めた。
鮮卑討伐論と蔡邕の反対
- 護烏桓校尉の夏育は、鮮卑の侵寇が相次ぐので、幽州諸郡兵を率いて塞外で討つべきだと上言した。
- 失脚していた田晏も功を立てようとして王甫に働きかけ、破鮮卑中郎将に任ぜられた。
- 朝堂で議論が行われると、蔡邕は、鮮卑は匈奴旧地を占めて十万の兵力を持ち、漢人逃亡者も参謀となっているため容易には屈せず、武帝の時代ですら長年の遠征で疲弊を残したのだから、今の国力ではなおさら危険だと説いた。
- 彼は、辺患は手足の皮膚病にすぎないが、内地の盗賊や政治の乱れは胸背の大患であるとして、まず国内の統治を正すべきだと主張した。
- しかし皇帝は従わず、八月、夏育を高柳、田晏を雲中、匈奴中郎将の臧旻を南単于とともに雁門から、それぞれ一万騎で出兵させた。
- 檀石槐は三部の大人に迎撃させ、漢軍は大敗した。節・符・輜重を失い、死者は十の七八に及び、三将は檻車で召され、庶人に落とされた。
冬 日食・地震・三公交代
- 十月朔に日食があった。
- 京師で地震があり、太尉の劉寛が罷免された。
- 十一月、司空の陳球も罷免された。
- 十二月、孟郁が太尉、陳耽が司空となった。
趙苞の忠孝
- 遼西太守となった趙苞は、赴任に際し母と妻子を呼び寄せたが、柳城を通る途中で鮮卑に捕えられ、人質に取られた。
- 賊は趙苞に母を見せて降伏を迫ったが、趙苞は、今や自分は王臣であり、私恩のために忠節を損なうことはできないと泣いて叫んだ。
- 母もまた、各人には命があり、忠義を損なってはならぬと諭したため、趙苞は進撃し、賊を打ち破ったが、母と妻子は殺された。
- 皇帝は使者を遣わして弔い、鄃侯に封じた。
- 葬儀を終えると趙苞は、禄を食みながら難を避けるのは不忠、母を失って義を全うしたのは不孝であるとして吐血して死んだ。