資治通鑑漢紀四十九 孝靈皇帝上之下 光和元年 前397年
春 南方反乱と鴻都門学の栄進
- 正月、合浦・交趾の烏滸蛮が反乱し、九真・日南の民を誘って郡県を陥した。
- 太尉の孟郁が罷免された。
- 二月、日食があり、袁滂が司徒に任ぜられ、地震も起きた。
- 鴻都門学が置かれ、その学生たちは州郡・三公に命じて推挙・召辟され、刺史・太守・尚書・侍中にまで上る者や、侯・爵を賜る者まで出た。士大夫はこれを恥として同列に並ぶのを避けた。
三月 改元と張顥の太尉就任
- 天下に大赦があり、元号を光和と改めた。
- 太常の張顥が太尉となった。彼は中常侍張奉の弟である。
夏 地震と異変
- 四月、地震があり、侍中寺では雌鶏が雄に変わったとされた。
- 司空の陳耽が罷免され、来艶が司空となった。
- 六月、温徳殿東庭に黒気が落ち、十数丈の長さで龍のように見えた。
秋七月 虹と災異への諫言
- 玉堂後殿の庭に青い虹が現れた。
- 皇帝は楊賜らを金商門に召して災異とその対処法を問うた。
- 楊賜は、虹の異変は天下の怨みと海内の乱れを示すものであり、宦官・側近が朝政を専断し、鴻都門下の小人が互いに推薦し合って高位につき、正士が野に埋もれているためだと述べた。
- 蔡邕も、虹や雌鶏の変化は婦人・宦官の干政に由来するとし、過去の乳母趙嬈や永楽門史霍玉の例を挙げ、さらに「程大人」なる人物の噂にも警戒を促した。
- また、張顥・偉璋・趙玹・蓋升ら幸臣の名を挙げて退けるべきだとし、郭禧・橋玄・劉寵のような忠正な人物を重用すべきだと述べた。
- さらに、尚方の工芸や鴻都の辞賦をしばらく抑え、孝廉や州郡辟召の選挙を小技で乱してはならないと諫めた。
- 皇帝はその奏を見て嘆息したが、更衣に立ったすきに曹節がこれを盗み見し、左右に漏らしたため、蔡邕を恨む者たちが報復を図ることとなった。
蔡邕の投獄と流罪
- 蔡邕はもともと大鴻臚劉郃と不和であり、叔父の衛尉蔡質も陽球と隙があった。
- そこで中常侍程璜が人を使って、蔡邕と蔡質が私事で劉郃に請託し、拒まれたのを恨んで陥れようとしたと告発させた。
- 蔡邕は洛陽獄に下され、大不敬として棄市が論じられたが、中常侍呂強が無罪を訴え、皇帝も以前の奏章を思い返したため、死一等を減じて家族とともに髠鉗され、朔方へ流された。
- 陽球は刺客を差し向けたが、相手は蔡邕の義に感じて実行せず、さらに地方長官に毒殺を命じたが、その者が逆に蔡邕へ通報したため難を免れた。
秋冬 三公交代と宋皇后の死
- 八月、天市に彗星が現れた。
- 九月、張顥が太尉を罷め、陳球が太尉に、袁逢が司空に就いた。
- 宋皇后は寵愛が薄く、後宮の寵姫たちが彼女を中傷した。渤海王悝の妃宋氏が皇后の姑にあたるため、王甫は皇后に恨みが向くのを恐れ、左道・呪詛の罪を着せた。
- 皇帝はこれを信じ、皇后の璽綬を奪って暴室に収容し、憂死させた。
- 父の宋酆と兄弟もともに誅された。
- 晦日に日食があり、尚書の盧植は、党錮の多くは冤罪なので赦免し、宋后一族の遺骸を収め、また守令の頻繁な交替や請託の横行を改めるべきだと上言したが、皇帝は取り上げなかった。
年末 橋玄の太尉就任と鴻都文学の図像化
- 十一月、太尉の陳球が罷免された。
- 十二月、橋玄が太尉となった。
- 鮮卑は酒泉を侵し、勢力をさらに増した。
- これに対し朝廷は、中尚方に命じて鴻都文学の楽松・江覧ら三十二人の肖像と賛を作らせ、学ぶ者の模範として掲げた。
- 尚書令の陽球は、彼らはもと微賤で、権門に取り入って出世しただけの小人物だとして、太学や東観こそが聖化を明らかにする場であり、鴻都の選挙は天下の譏りを招くとして中止を求めたが、聞き入れられなかった。
この年 西邸売官
- この年から西邸で官職の売買が始まった。二千石は二千万、四百石は四百万など、価格が定められた。
- 本来は徳によって選ばれるべき者には半額あるいは三分の一とされることもあったが、富者は先に金を納めて優先され、貧者は着任後に倍額を払わされた。
- さらに左右近臣が公卿の地位まで私売し、公は一千万、卿は五百万とされた。
- 皇帝は若い頃に貧しさを味わい、桓帝には私財がなかったことを惜しんで、売官で私蔵を増やした。
- 侍中の楊奇が、皇帝は桓帝よりはるかに上で、虞舜が唐堯に比肩するようなものだと答えると、皇帝はかえって不快に思い、楊氏を頑迷だと評した。
- この年、南匈奴では屠特若尸逐就単于が死に、呼徴が立った。