資治通鑑漢紀四十六 孝桓皇帝 延熹 四年 161年
春正月〜二月 相次ぐ火災と疫病
- 春正月、南宮の嘉徳殿が焼け、ついで丙署でも火災があった。
- 大疫が流行した。
- 二月、武庫が焼失した。
- 司徒盛允が罷免され、大司農种暠が司徒となった。
三月〜六月 黄瓊罷免と各地の災異
- 三月、太尉黄瓊が罷免された。
- 夏四月、太常劉矩が太尉に任じられた。劉矩はかつて雍丘令として礼譲で民を教化し、訴訟人の耳を取って戒め、争いを思いとどまらせたことで知られていた。
- 甲寅、河間孝王の子劉博が任城王に立てられ、絶えていた任城孝王の後を継いだ。
- 五月、心宿に彗星が現れた。
- 光武帝の原陵長寿門が焼け、京師には雹が降った。
- 六月、京兆・扶風および涼州で地震があり、泰山と博県の徂来山がともに崩れ裂けた。
- 己酉、天下に大赦があった。
- 司空虞放が罷免され、前太尉黄瓊が司空に再任された。
犍為夷と羌の反乱
- 犍為属国の夷が人民を略奪したが、益州刺史山昱がこれを破った。
- 零吾羌と先零など諸羌が反して三輔を侵した。
秋七月〜九月 節約策と劉寵
- 京師では旱魃に対して雩祭が行われた。
- 公卿以下の俸給を減らし、王侯の租税も半分貸し下げとし、関内侯の爵位を売り、虎賁・羽林・緹騎営士・五大夫にも銭の負担を課すなど、財政再建策が取られた。
- 九月、司空黄瓊が罷免され、大鴻臚の劉寵が司空になった。
- 劉寵は会稽太守の時、煩雑苛酷な行政を省き、不法を禁じて大いに治績を上げた人物である。山陰県の老人たちが百銭を携え、以前の役人は夜通し民家を騒がせたが、劉寵が来てから犬さえ夜吠えしなくなったと感謝して見送ったという。劉寵はそのうち一枚の大銭だけを受け取った。
冬 郭閎と段熲失脚、皇甫規起用
- 冬、先零・沈氐らの羌が并州・涼州を侵した。
- 校尉段熲は湟中義従を率いて討とうとしたが、涼州刺史郭閎が功を争って進軍を引き延ばしたため、義従は久役を嫌って皆逃亡した。
- 郭閎はその罪を段熲に着せ、段熲は召還されて獄に下され、左校で労役に服した。
- 胡閎が代わって校尉となったが、威略がなく、羌はますます跳梁し、営塢を覆して諸郡へ広く侵攻した。
- 泰山太守皇甫規は、鳥鼠山から東の泰山にいたるまで反乱の病根は同じであり、猛将や兵法よりも、良い郡守と公正な行政こそが重要だと上疏し、自ら西方へ赴くことを願い出た。
- 朝廷はこれを許し、皇甫規を中郎将・持節として関西の兵を監督させ、零吾らを討たせた。
- 十一月、皇甫規は羌を破り八百余級を斬り、先零など諸羌十余万を威信で降した。