資治通鑑漢紀四十六 孝桓皇帝 延熹 五年 162年
春正月〜三月 南宮火災と皇甫規の西征
- 春正月、南宮の丙署がまた焼けた。
- 三月、沈氐羌が張掖・酒泉を侵した。
- 皇甫規は先零諸羌を動員して隴右討伐にあたったが、道路は絶え、軍中に疫病が流行して兵の多くが死んだ。
- それでも皇甫規は自ら庵舎を巡って将士を見舞い、軍の感激を呼んだ。東羌は使者を送って降伏を請い、涼州への交通も回復した。
孫雋・李翕らの処断
- それ以前、安定太守孫雋は収賄が著しく、属国都尉李翕や督軍御史張禀は降伏羌を多く殺していた。涼州刺史郭閎と漢陽太守趙熹も老弱で職に堪えず、しかも権門に頼って法を守らなかった。
- 皇甫規は着任すると、これらの罪をことごとく条奏し、免職あるいは処刑させた。
- 羌人たちはこれを聞いて漢の政治に希望を持ち、沈氐の大豪滇昌・飢恬ら十余万口も再び皇甫規のもとへ降った。
夏四月〜七月 南方大乱と火災続発
- 夏四月、長沙の賊が起ち、桂陽・蒼梧に侵入した。
- 乙丑、恭陵東闕が焼け、戊辰には虎賁掖門も焼けた。
- 五月、康陵の園寝が焼失した。
- 長沙・零陵の賊は桂陽・蒼梧・南海にまで入り、交趾刺史や蒼梧太守は風聞だけで逃げ出した。
- 御史中丞盛修が州郡兵を募って討ったが、勝てなかった。
- 乙亥、京師で地震があり、甲申には中蔵府丞禄署も焼けた。
- 秋七月、南宮承善闥が焼けた。
- 鳥吾羌が漢陽・隴西・金城を侵したが、諸郡兵がこれを撃破した。
荆州の反乱と胡爽の死
- 艾県の賊が長沙郡県を攻め、益陽令を殺し、その勢いは一万余人となった。
- 謁者馬睦が荆州刺史劉度を督して討ったが敗れ、二人は零陵へ逃げた。零陵蛮もこれに呼応して反した。
- 冬十月、武陵蛮が江陵を侵し、南郡太守李肅も逃走しようとした。
- 主簿胡爽は、蛮夷が備えのないと見て進んだだけであり、郡守たる者が逃げれば国家の大任を捨てることになると、馬首をつかんで諫めた。
- しかし李肅はかえって胡爽を斬って逃げたため、皇帝は李肅を棄市にし、馬睦・劉度は死一等を減じた。また胡爽の家には門閭復除を与え、家族一人を郎にした。
馮緄・度尚の平定
- 尚書朱穆は、右校令の度尚を荆州刺史に推挙した。
- 辛丑、太常馮緄が車騎将軍となり、十余万の兵で武陵蛮討伐を命じられた。
- それまで派遣された将帥は、しばしば宦官に軍資減耗の罪を着せられていたため、馮緄はあえて中常侍一人の監軍派遣を求めた。尚書朱穆は、大臣として財務を疑われる口実を与えると反対したが、皇帝は不問とした。
- 馮緄は前武陵太守応奉を従事中郎として伴った。
- 十一月、馮緄軍が長沙へ着くと賊はことごとく降り、さらに武陵蛮夷を攻めて四千余級を斬り、十余万を降して荆州を平定した。
- 朝廷は一億銭を賞したが、馮緄は固辞して受けず、帰京後は功を応奉に譲って司隷校尉に推挙し、自身は引退を願ったが許されなかった。
年末 皇甫規の讒訴
- 滇那羌が武威・張掖・酒泉を侵した。
- 太尉劉矩が罷免され、楊秉が太尉となった。
- 皇甫規は持節のまま帰郷方面を監督したが、私恩を施さず、かえって多くを弾劾し、しかも宦官を嫌って交わろうとしなかった。
- そのため内外から怨みを買い、羌に賄賂を贈って降伏文書を作らせたのだと誣告された。皇帝からの譴責は相次いだ。
- 皇甫規は上書で、出征以来、孫雋・李翕・張禀・郭閎・趙熹ら大勢力の官人を摘発したため、その一党の報復を受けているのだと自己弁護した。たとえ羌を懐柔するために千金を費やしたとしても、それは良将の当然の手段であり、これまでの敗軍の将たちがかえって珍宝を携えて権門に出入りしていたのと比べれば、自分に罪はないと論じた。
- 皇帝は皇甫規を召し還して議郎にし、功に応じて封侯すべきこととなった。
- ところが中常侍徐璜・左悺が賄賂を要求し、使者を遣わして功績の詳細を問いただしたが、皇甫規は応じなかった。
- 彼らは怒って前の件を蒸し返し、皇甫規を有司に下した。官属たちは賦斂して謝罪しようとしたが、皇甫規は誓って許さず、ついに「余賊を殲滅していない」との理由で廷尉に繋がれ、左校送りとなった。
- しかし諸公や太学生張鳳ら三百余人が宮門に訴え、恩赦にもあったため、皇甫規は家へ帰ることができた。