資治通鑑漢紀四十六 孝桓皇帝 延熹 三年 160年
春正月 李固の遺児捜索
- 春正月、天下に大赦があり、李固の後継を求める詔が出た。
- かつて李固は失脚を悟ると三人の子を郷里へ帰していたが、二人は獄死していた。
- 末子の李燮は十三歳で、姉の文姫がひそかにかくまい、門生の王成に託して江を下らせ、徐州で酒家の下働きとして身を隠した。
- 王成は市で卜者となって支え、十余年を経て梁冀誅滅後、李燮はようやく帰郷した。
- 姉は、梁氏への怨みを軽々しく口にすれば主上にも累が及ぶから、ただ自らの不幸として受け止めよと戒め、李燮はその教えに従った。
- 王成が死ぬと、李燮は礼を尽くして葬り、四時の祭りごとに上客の席を設けて祀った。
丙午 単超の死と四侯の横暴
- 丙午、新豊侯単超が死去し、東園の秘器や玉具を賜り、葬儀には五営の騎士と将作大匠まで動員された。
- その後、残る四侯はいっそう横暴になり、世間では「左悺は天をも動かし、具瑗は独り尊大に座し、徐璜は臥した虎のようで、唐衡の害は激しい雨の落つるごとし」と噂された。
- 彼らは豪奢な邸宅を競って築き、僕従や親族まで州郡を支配し、人民への収奪は盗賊同然であったため、各地で盗賊が多発した。
侯覧・段珪の田荘と滕延
- 中常侍侯覧と小黄門段珪は済北近辺に田地を持ち、その僕従や賓客が旅人を略奪していた。
- 済北相の滕延はこれを厳しく取り締まり、数十人を捕らえて殺し、路上にさらした。
- 侯覧・段珪が帝に訴えたため、滕延は廷尉に召され、罷免された。
趙岐の逃亡
- 左悺の兄左勝が河東太守になったことを、皮氏長の趙岐は恥として、その日のうちに官を捨てて西へ去った。
- 唐衡の兄唐玹は京兆尹で、もとから趙岐と不仲だったため、その一族を重罪に陥れてことごとく殺した。
- 趙岐自身は各地を逃れ、北海で餅売りに身をやつした。安丘の孫嵩がその器量を見抜いて家にかくまい、のち宦官たちが死んで恩赦が出るまで、趙岐は複壁に潜んで生き延びた。
閏月 段熲の西羌討伐
- 閏月、西羌の残党が再び燒何の大豪らとともに張掖を侵した。
- 夜明けに羌軍は校尉段熲の営へ迫り、段熲は下馬して大戦し、日中まで戦って刀は折れ矢も尽きた。敵も退いたため、段熲は追撃を続けた。
- 肉を割いて食い、雪を溶かして飲みつつ四十余日進軍し、積石山まで追い詰めて燒何の首領を斬り、残党を降して帰還した。
夏五月〜冬十一月 災異と南方・西方の鎮定
- 夏五月、漢中で山崩れがあった。
- 六月、司徒祝恬が死去した。
- 秋七月、司空盛允が司徒、太常虞放が司空となった。
- 長沙蛮が再び益陽に集結し、零陵蛮は長沙を侵し、九真の残賊は日南に拠って勢力を増した。
- 朝廷は、以前から威信のあった夏方を再び桂陽太守から交趾刺史へ転じて南方鎮定に当たらせた。
- 冬十一月、日南の賊二万人余はそろって夏方のもとへ降った。
- 一方で勒姐・零吾の羌が允街を包囲したが、段熲が撃破した。
- 泰山賊叔孫無忌は都尉侯章を殺したが、中郎将宗資がこれを破った。
- さらに皇甫規が泰山太守となり、到任後に各種の方略を施して賊を平らげた。