資治通鑑漢紀 孝安皇帝 延光 元年 123年

改元と羌・東北の情勢

  • 春三月丙午、改元して延光とし、天下に大赦した。
  • 護羌校尉の馬賢は麻奴を湟中まで追撃して破り、その部衆は散り散りに逃げた。
  • 夏四月、京師と四十一郡国で雹が降り、河西では斗のように大きい雹もあった。
  • 幽州刺史の馮煥と玄菟太守の姚光は、しばしば奸悪を摘発していたため怨まれ、何者かが偽の璽書を作って二人を譴責し、欧刀を賜ったように見せかけた。また遼東都尉の龐奮に命じて速やかに刑を執行させた。龐奮は姚光を斬り、馮煥を捕えた。
  • しかし馮煥の子の緄は、詔文に不審があると見て父の自殺を止め、事情を上申させた。果たして偽詔と判明し、龐奮は召されて罪に問われた。
  • 癸巳、司空の陳褒が免ぜられ、五月庚戌に宗正の劉授が司空となった。
  • 己巳、河間孝王の子の徳を安平王に封じ、楽成靖王の後を継がせた。以後、楽成国は安平国と改められた。

災異と東北の安定

  • 六月、諸郡国で蝗が発生した。
  • 秋七月癸卯、京師と十三郡国で地震があった。
  • 高句驪王の遂成は捕えた漢人を返し、玄菟に赴いて降った。その後、濊・貊も服し、東辺はしばらく事が少なくなった。
  • 䖍人羌と上郡胡が反したが、度遼将軍の耿夔がこれを撃破した。
  • 八月、楊陵の園寝で火災が起きた。
  • 九月甲戌、二十七郡国で地震があった。

鮮卑の増長と陳忠の諫め

  • 鮮卑はすでに郡守をたびたび殺したことで勢いづき、数万騎を擁して、冬十月には鴈門・定襄、十一月には太原を寇した。
  • 焼当羌の麻奴は飢え困って種族を率い、漢陽太守の耿种に降った。
  • この年、京師と二十七郡国で大水があった。
  • 皇帝はしばしば黄門常侍や中使の伯栄を甘陵へ往来させた。陳忠は上疏し、水雨・蝗害・羌戎の反乱・府庫不足といった危機の時に、使者たちが威勢を張り、王侯や二千石にまで伯栄へ車下拝礼させ、道路修築や亭伝整備、物資備蓄を際限なく命じ、老弱まで大量に駆り出していると批判した。
  • 河間王は皇帝の叔父、清河には陵廟という特別の尊さがあるにせよ、伯栄の権威が皇帝をしのぎ、柄が臣妾の手に落ちていることこそ水災の原因だとし、韓嫣・石顕・趙昌・朱博・王鳳らの前例を引いて、女使や左右近習が国家を乱す危険を強く諫めた。だが皇帝は省みなかった。

三公権限の形骸化と地方人物

  • 当時、三府の権限は軽く、機務は専ら尚書に委ねられていたため、災異のたびに三公ばかりが責任を負わされた。陳忠は、今の三公は名ばかりで実権がなく、尚書の決裁には典故に反するものも多いと論じ、責任と権限の不一致を改めるよう求めた。
  • 汝南太守の王龔は、寛和で才士を愛し、袁閬を功曹に登用し、黄憲や陳蕃らを引き立てた。黄憲は仕官を辞し、陳蕃は官に就いた。群士はみな王龔のもとに心を寄せた。
  • 黄憲は貧しく牛医の家に生まれたが、潁川の荀淑に「わが師表」とまで称され、袁閬・戴良・陳蕃・周挙・郭泰ら当代の名士からも、清く深く量りがたい人物として敬服された。
  • 黄憲は孝廉や公府辟召を受けたものの、京師に少し滞在して帰り、ついに官途に就かなかった。四十八歳で死去した。范曄は、その徳が大きすぎて名づけがたい人物だと論じ、范氏の先人の評として、ほとんど顔回に近いとまで称えている。