羌乱の再燃と朝政の弛緩
- 壬寅、太尉の馬英が薨じた。
- 焼当羌の忍良らは、麻奴兄弟がもともと焼当の嫡流であるのに、馬賢が十分に慰撫しなかったことから怨みを抱き、諸種を脅して湟中へ侵攻し、金城諸県を攻めた。
- 八月、馬賢は先零種を率いて牧苑で戦ったが不利で、麻奴らはさらに武威・張掖の郡兵を令居で破った。
- その勢いで先零・沈氐など諸種四千余戸を脅し従えて山沿いに西へ移り、武威を寇した。馬賢は鸞鳥まで追い、投降する者数千を得たが、麻奴は南の湟中へ戻った。
- 甲子、前司徒の劉愷が太尉となった。
法制議論と北辺の危機
- 叔孫光の贓罪により二世禁錮の先例があったが、居延都尉の范邠が同様の罪に問われた際、朝廷はその先例に従おうとした。劉愷は『春秋』の義に従い、善は子孫に及ぶが、悪はその身で止めるべきであり、子孫にまで及ぼすのは刑の趣旨に反すると論じた。陳忠もこれに賛成し、詔でも太尉の議が是とされた。
- 鮮卑の其至䕶が居庸関を寇し、九月には雲中太守の成厳が撃って敗れ、功曹の楊穆が身を挺してともに戦死した。
- 鮮卑はさらに馬城で烏桓校尉の徐常を包囲したため、度遼将軍の耿夔が幽州刺史の龐参とともに広陽・漁陽・涿郡の甲卒を発して救援し、鮮卑を退かせた。
皇帝の遊興と喪制の再廃
- 戊子、皇帝は衛尉の馮石の邸に行幸し、十余日も留まって酒宴を楽しんだ。石の子の世を黄門侍郎とし、その弟二人も郎中にした。馮石は陽邑侯馮魴の孫で、父の馮柱は顕宗の女・獲嘉公主に尚しており、石はその封爵を継いだ獲嘉侯だった。人に気に入られる術に長け、皇帝の寵を得ていた。
- この年、京師と二十七郡国で大水があり、十一月己丑には三十五地で地震が起き、鮮卑も玄菟を寇した。
- 尚書令の祋諷らは、文帝の日数短縮と光武帝の告寧廃止を祖法として、大臣の三年喪を再び禁ずるべきだと奏した。
- これに対し尚書の陳忠は、高祖以来の旧制では大臣にも「寧告」があり、三年喪は父母への報恩として大義にかなうと論じ、皇帝が甘陵を北望して父母陵を思う心で臣下の心を推し量れば、天下も安んずるはずだと説いた。
- しかし宦官たちはこれを不便とし、結局、庚子に二千石以上の三年喪は再び断たれた。袁宏は、この措置は礼を壊し天性を損なうものだと批判している。
東北情勢と陳忠の意見
- 十二月、高句驪王の宮が馬韓・濊貊の数千騎を率いて玄菟を包囲したが、夫余王が子の尉仇台に二万余人を与えて救援し、州郡軍とともにこれを破った。
- この年、宮が死んで遂成が立った。玄菟太守の姚光は、この喪中を衝いて攻めるべきだと奏上したが、陳忠は、生前に討てなかったのに死後に攻めるのは義に反するとし、使者を送り弔問しつつ旧罪を責め、今後の善行に期待すべきだとした。皇帝はこの意見に従った。