資治通鑑漢紀 孝安皇帝 延光 二年 124年

蜀の反乱と西域政策

  • 春正月、旄牛夷が反乱したが、益州刺史の張喬がこれを撃破した。
  • 夏四月戊子、乳母の王聖は野王君の爵位を与えられた。
  • 北匈奴はたびたび車師と結んで河西を寇し、議者の中には玉門・陽関を再び閉ざして災いを絶つべきだとする者があった。
  • これに対し敦煌太守の張璫は、実地を踏まえてみると、西域を棄てれば河西も自立できないと主張し、三策を上書した。第一は酒泉属国の兵二千余で昆侖塞に集まり、呼衍王を先に撃って根本を断つこと。第二は軍司馬五百人を柳中に置くこと。第三は、どうしても無理なら交河城を棄て、鄯善らを塞内へ収めることだった。
  • 朝廷が議論させると、陳忠もまた、西域諸国は長らく漢を慕っており、見捨てれば匈奴の財力と威勢を増して南羌とも結び、河西四郡が危うくなると説いた。武帝以来の苦心を忘れるべきではないとして、敦煌に校尉を置き、四郡の屯兵を増やすべきだと主張した。
  • 皇帝はこれを容れ、班勇を西域長史に任じ、兵五百を率いて柳中に屯させた。

災異・人事・楊震への圧迫

  • 秋七月、丹陽で山が崩れた。
  • 九月、五郡国で大水があった。
  • 冬十月辛未、太尉の劉愷が罷免され、甲戌に司徒の楊震が太尉、光禄勲の劉熹が司徒となった。
  • 大鴻臚の耿宝は、楊震を訪ねて中常侍の李閏の兄を辟召するよう求め、「自分はただ上意を伝えるだけだ」と言ったが、楊震は、もし朝廷の意思なら尚書勅を下すべきで、三府が私的に人を用いるべきではないと拒んだ。耿宝は深く恨んで去った。
  • 執金吾の閻顕もまた親しい者を推薦したが、楊震は応じなかった。司空の劉授だけはこれを辟召したため、楊震はいっそう恨みを買った。

王聖邸宅造営と楊震の諫言

  • このころ、使者が遣わされ、王聖のために大規模な邸宅が造営された。樊豊や侍中の周広・謝惲らも互いに煽り合い、朝廷を揺さぶった。
  • 楊震は上疏し、今は災害が多く、民は疲弊し、三辺も騒ぎ、帑蔵も乏しいのに、阿母のために街区を二つ合わせる大邸宅を築き、山を削り石を採り、費用は巨億に及ぶと批判した。周広・謝惲らは国の骨肉でもないのに近幸に依って権威を分かち、州郡へ口利きし、贓汚や世に棄てられた者まで再起用しているとし、白と黒、清と濁が混じっていると嘆いた。
  • しかし皇帝は聞き入れなかった。

鮮卑の侵攻と隠者招聘

  • 鮮卑の其至鞬が一万余騎を率いて南匈奴の曼柏薁鞬日逐王を攻め、王は戦死し、千余人が殺された。
  • 十二月戊辰、京師と三郡国で地震があった。
  • 陳忠は汝南の周燮と南陽の馮良を、学問・行いともに純粋で、世に名高い隠者として推薦した。皇帝は黒と浅紅の束帛や羔を贄として礼聘したが、周燮は一族の勧めに対し、道を修める者は時を量って動くべきであり、時が悪ければ通じないと答えた。馮良とともに自ら車に乗って近県までは来たものの、病を称して帰ってしまった。

班勇の進出と東巡

  • 三年春正月、班勇は楼蘭に至り、鄯善が帰附した功によって特別に綬を加えた。龜茲王の白英はなお疑っていたが、班勇が恩信をもって説くと、白英は姑墨・温宿を率いて自縛し、班勇のもとへ来た。
  • 班勇はその兵歩騎一万余を発して車師前王庭に進み、伊和谷で匈奴の伊蠡王を破走させ、前部の人民五千余を回復した。こうして車師前部との交通が再び開き、班勇は柳中へ戻って屯田した。
  • 二月丙子、皇帝は東巡を開始し、辛卯に泰山、三月戊戌に魯、さらに東平・東郡・魏郡・河内を経て還った。

楊震の最期

  • 先に樊豊・周広・謝惲らは、楊震の諫言を顧みず、偽詔を作って司農の金穀や大匠の材木、工徒を動員し、それぞれ自分たちの墓宅・園池・楼観を造営していた。楊震の部掾・高舒が大匠の令史を呼んで調べ、その事実を具奏し、行幸からの帰還を待って上申しようとしていた。
  • 樊豊らは恐れ、太史の星変逆行の報告に乗じて、楊震が趙騰の死後に怨みを深め、また鄧氏の故吏でもあるため恨みを抱いていると中傷した。
  • 壬戌、皇帝が京師に帰ると、夜のうちに使者を遣わして楊震の太尉印綬を収めた。楊震は門を閉ざして客を断ったが、樊豊らはなおこれを憎み、大鴻臚の耿宝に奏上させて、楊震は罪に服せず怨望しているとした。皇帝は本郡へ帰すよう命じた。
  • 楊震は城西の几陽亭に至ると、諸子や門人に、上司に居ながら奸臣を誅せず、嬖女の乱を止められなかった以上、何の面目があって日月を仰げようかと語り、粗末な雑木の棺と布の単被だけで足りるよう遺言して、酖酒を飲んで死んだ。
  • 弘農太守の移良は樊豊らの意を受け、陜県で楊震の棺を路傍に留め置き、その子らに駅伝の文書運搬を代行させたため、道行く者はみな涙した。
  • 太僕の来歴は、耿宝が元舅の親という立場に頼って奸臣と結び、忠良を害しているので、天罰は近いと語った。来歴は来歙の曾孫である。

後宮・太子廃立

  • 夏四月乙丑、皇帝は宮に戻った。戊辰、光禄勲の馮石が太尉となった。
  • 南単于の檀が死に、弟の㧞が烏稽侯尸逐鞮単于として立った。
  • 鮮卑がたびたび辺境を侵したため、耿夔は温禹犢王の呼尤徽ら新降者を率い、連年出塞して戦わせ、帰っては要地へ屯させた。これが煩重だったため、新降者はみな恨み、大人の阿族らが反して呼尤徽を誘った。呼尤徽は、漢の恩を受けた身として死んでも従えないと拒み、助命され、阿族らは亡命したが、中郎将の馬翼が追撃してほぼ殲滅した。
  • 日南徼外の蛮夷は内属した。
  • 六月、鮮卑が玄菟を寇し、庚午には閬中で山崩れがあった。
  • 秋七月辛巳、耿宝が大将軍となった。
  • 王聖・江京・樊豊らは、皇太子の乳母・王男や厨監の邴吉らを譛って殺し、その家族を比景へ流した。太子は男・吉を思ってしばしば嘆息した。
  • 江京と樊豊は後患を恐れ、閻后とともに虚構を作って太子と東宮官属を讒言し、皇帝は公卿以下を召して廃太子を議させた。耿宝らはみな廃すべしと答えた。
  • しかし太僕の来歴、太常の桓焉、廷尉の張皓らは、太子はまだ十歳にすぎず、過失が本人の責任といえる年齢ではない、男吉らの謀も太子は知らないかもしれない、忠良の保傅を選んで礼義で補導すべきだと主張した。張皓はさらに、江充の讒言で戾太子が滅んだ前例を引き、廃立は重大ゆえ熟慮すべきだと再上書した。
  • それでも皇帝は従わず、九月丁酉、皇太子保を廃して済陰王とし、徳陽殿西の鐘下に住まわせた。

来歴らの抗議

  • 来歴は、光禄勲の祋諷、宗正の劉瑋、将作大匠の薛皓、侍中の閭丘宏・陳光・趙代・施延、太中大夫の朱倀ら十余人と結び、鴻都門に詣でて太子に罪がないと証言した。
  • 皇帝は左右近臣とともにこれを憂え、中常侍に詔を奉じさせて、父子の恩を義によって断つのは天下のためであり、来歴らは大義を知らず群小とともに騒いでいる、寛貸しているうちに迷いを改めねば刑を明らかにすると脅した。諫めた者たちはみな色を失った。
  • 薛皓は最初に明詔に従うと頓首した。来歴は憤然として、先にはともに諫めながら今は背くのか、大臣が朝車に乗って国事にあたりながら、こうも容易に転ぶものかと公然と詰責した。
  • 皆がしだいに退いたのちも、来歴だけは宮門に連日とどまって去らなかった。皇帝は大いに怒り、尚書令の陳忠らに劾奏させ、来歴兄弟を免官し、征羌侯国の租を削り、その母の武安公主も会見を禁ぜられた。

年末の出来事

  • 隴西郡は、この年ようやく狄道に復した。
  • 焼当羌の豪麻奴が死に、弟の犀苦が立った。
  • 庚申晦、日食があった。
  • 冬十月、皇帝は長安へ行幸し、十一月乙丑に洛陽へ還った。
  • この年、京師および諸郡国で二十三の地震があり、三十六回の大水・雹害もあった。