春二月から三月 安帝の南巡と崩御
- 春二月、下邳惠王衍が死去した。
- そののち安帝は南巡に出発したが、三月に宛へ着くと病状が重くなった。
- 宛を発って葉に至ったところで、安帝は行在所の車中で崩じた。年三十二であった。
閻太后一派の秘喪と北郷侯の擁立
- 皇后は閻顕兄弟・江京・樊豊らと相談し、皇帝の死を途中で公表すれば、宮中にいる済陰王が先に擁立されて自分たちの脅威になると恐れた。
- そこで「皇帝は重病」と偽って、食事や起居の伺いも平常どおりに見せかけ、急いで洛陽へ帰還した。
- 帰還後、司徒劉熹を郊外の宗廟・社稷に遣わして天命を請う儀礼を行い、その夜になって初めて喪を発した。
- 皇后は皇太后として臨朝し、閻顕を車騎将軍・儀同三司とした。
- 太后は長く政権を握るため、幼い君主を立てようとし、済北惠王の子である北郷侯懿を後継に定めた。
- 本来の嫡統であった済陰王は、かつて廃されていたため梓宮に近づくことも許されず、悲しみに沈んだ。廷臣の多くもこれを哀れんだ。
- この年、済南孝王香も死去し、嗣子がなく国が断絶した。
夏四月 新政権による粛清
- 北郷侯が即位した。
- 太尉馮石は太傅に、司徒劉熹は太尉となって尚書を統轄し、前司空李郃が司徒となった。
- 閻顕は、大将軍耿宝が前朝以来の重臣として威望を持つのを嫌い、樊豊・謝惲・周広・王聖母女らと結んで専横したとして弾劾させた。
- 樊豊・謝惲・周広は獄死し、家族は比景へ流された。耿宝とその一族も爵を落とされ、国へ帰される途中で耿宝は自殺した。
- 王聖の母子も雁門へ流された。
- かわって閻景・閻耀・閻晏ら閻氏一門が要職を占め、威福は彼らの私意によって左右されるようになった。
- 安帝は恭陵に葬られ、廟号は恭宗とされた。
- 六月、天下に大赦があった。
秋七月 班勇の西域経略
- 西域長史班勇は、敦煌・張掖・酒泉の騎兵六千と鄯善・疏勒・車師前部の兵を率いて車師後部王の軍就を討った。
- 班勇は大勝し、首虜八千余を得て、軍就を生け捕りにした。
- さらに匈奴の持節使者で、かつて索班を害した者も捕えて斬り、その首を京師へ送った。
冬十月から十一月 北郷侯の死と宦官の政変
- 冬十月、越巂で山崩れが起きた。
- 北郷侯が危篤となると、中常侍孫程は済陰王側近の興渠に対し、済陰王こそ嫡統であり、もし北郷侯が崩じたなら江京・閻顕を除いて復位させようと持ちかけた。
- 王康・王国らもこれに加わった。
- 江京は閻顕に対し、北郷侯の病が重いのだから諸王の子を早く集めて後継を選ぶべきだと勧めた。
- 辛亥、北郷侯が死去したが、閻顕は太后に報告して秘匿し、宮門を閉じて兵を屯させた。
十一月 済陰王の即位
- 乙卯、孫程・王康・王国ら十数名の宦官は西鐘の下で密議し、衣を裂いて盟約した。
- 丁巳、京師と郡国十六か所で地震が起きた。
- その夜、孫程らは崇徳殿から章台門へ入り、禁門にいた江京・劉安・陳達らを斬った。
- 李閏を脅して味方とし、西鐘の下で済陰王を迎えて帝位につけた。これが順帝で、当時十一歳であった。
- 新帝は南宮に移り、公卿百官を集め、虎賁・羽林に南北宮の門を守らせた。
閻氏の敗北
- 閻顕は禁中で狼狽し、馮詩や閻崇に命じて平朔門付近を守らせようとしたが、馮詩はかえって樊登を殺して離反した。
- 閻顕の弟で衛尉の閻景は兵を集めたが、尚書郭鎮が詔を奉じてこれを捕えた。閻景はその夜のうちに獄死した。
- 戊午、使者が禁中から璽綬を奪い返し、皇帝は嘉徳殿へ移った。
- 閻顕・閻耀・閻晏らは逮捕されて誅され、家族は比景へ流された。閻太后は離宮へ移された。
- 己未、宮門が開かれ、屯兵は解かれた。
- 壬戌、詔して、罪を問うのは閻顕・江京の近親に限り、その他には寛大に対処するよう命じた。
十一月から十二月 十九侯の封建と論功行賞
- 孫程ら十九名の宦官は列侯に封じられ、封邑や賞賜を受けた。これがいわゆる「十九侯」である。
- 李閏は事前の密議に加わっていなかったため封侯されなかった。
- 苗光は章台門への突入に実際には参加していなかったが、王康が名簿に加えたため功臣扱いとなった。のち苗光自身が不安に耐えかねて自首したが、不問とされた。
- かつて順帝を支持していた来歴・祋諷・閭丘弘らの関係者も取り立てられた。
- 王男邴吉の家族も京師へ呼び戻され、厚く賞された。
- 順帝が廃太子となった時に連座して流された近侍たちも、中常侍などに抜擢された。
崔瑗の進言と閻氏失脚の余波
- 閻顕に仕えていた崔瑗は、北郷侯の擁立が正統でないと見て、済陰王を立てるよう諫めようとしたが、閻顕が日々泥酔していて会えなかった。
- そこで長史陳禅に協力を求めたが、決断がつかないうちに閻顕は敗れ、崔瑗も官を逐われた。
- 弟子が上書して事情を明らかにしようとしたが、崔瑗は私語が公になるのを嫌ってこれを止め、そのまま郷里へ退いた。
北郷侯の葬儀・劉授罷免・陶敦任用
- 北郷侯は諸王の礼で葬られた。
- 司空劉授は、逆党への追従と不適切な人材登用を理由に策免された。
- 十二月、少府陶敦が司空となった。
楊震の名誉回復
- 楊震の門生である虞放・陳翼が宮門に赴いて、かつての冤罪を訴えた。
- 詔により楊震の二子は郎に任じられ、銭百万が贈られ、潼亭で礼をもって改葬された。
- 葬儀には遠近から人々が集まり、大鳥が棺前に降りたという報告もあって、皇帝は楊震の忠節に感じ入った。
- そこで改めて少牢の礼で祭祀させた。
閻太后処遇をめぐる議論
- 議郎陳禅は、閻太后には順帝との母子の恩がないのだから別館へ移し、朝見を絶つべきだと主張した。
- 群臣の多くは賛成したが、司徒掾の周挙は、古来、たとえ親に罪があっても子の礼を尽くした先例を挙げ、もし太后が離宮で憂悶して不測の事態となれば、朝廷に大きな非難が集まると説いた。
- 李郃はこの意見を受け入れ、ひそかに上表して、太后への奉養と朝覲を旧例どおりにするよう求めた。