西南・東北の動乱
- 春三月、京師と五郡国で旱害が起きた。
- 夏六月、高句驪が濊貊とともに玄菟へ侵攻した。
- 永昌・益州・蜀郡の夷も皆反乱し、封離に呼応する勢力は十余万に達し、二十余県を破壊した。長吏を殺し、民家を焼き掠めたため、千里にわたり人骨が積もる惨状となった。
- 秋八月朔、日食が起きた。
- 代郡では鮮卑が侵入して長吏を殺したため、朝廷は辺境の甲卒や黎陽営兵を上谷に駐屯させ、防備を固めた。
- 冬十月、鮮卑は上谷に侵攻し、居庸関を攻撃した。さらに辺郡と黎陽営、積射士、歩騎あわせて二万人を要地に配置した。
羌乱の終息と任尚の失脚
- 鄧遵は上郡の全無種羌の雕何を用いて狼莫を刺殺させ、その功で羌侯に封じた。
- 羌の反乱が始まって十余年の間に、軍費は二百四十余億にのぼり、府庫は尽き、辺民や内郡の死者は数え切れなかった。并州・凉州は疲弊しきっていた。
- だが零昌・狼莫の死後、諸羌は瓦解し、三輔と益州にも大規模な寇警はなくなった。
- 朝廷は鄧遵を武陽侯に封じ、三千戸を与えた。これは皇太后の従弟としての恩典も厚かった。
- 任尚は鄧遵と功を争ったうえ、首級を水増しし、賄賂を受け、法を曲げた罪で、贓罪は千万以上に達したため、十二月、檻車で召還され棄市となり、財産は没収された。
- 鄧騭の子の侍中・鳳がかつて任尚から馬を受け取っていたため、鄧騭は妻を髠にし、鳳にも謝罪させた。
- この年、十四地で地震があり、皇太后の弟の悝・閶が死去した。悝の子の広宗を葉侯に、閶の子の忠を西華侯に封じた。