資治通鑑漢紀 孝安皇帝 元初 六年 119年

災異と辺境の戦い

  • 春二月乙巳、京師および四十二郡国で地震があった。
  • 夏四月、沛国・勃海で暴風と雹があり、五月には京師が旱害にあった。
  • 六月、平原哀王得が薨じ、後継ぎがなかった。
  • 秋七月、鮮卑が馬城塞に侵入して長吏を殺した。度遼将軍の鄧遵と中郎将の馬続が南単于を率いて追撃し、大勝した。
  • 九月、陳懐王竦が薨じて無子だったため、その国は除かれた。
  • 冬十二月朔、日食があり、その後八地で地震が起きた。

鄧太后の教育方針と豫章の瑞応

  • この年、皇太后は和帝の弟である済北王寿と河間王開の子女のうち五歳以上四十余人、さらに鄧氏近親の子孫三十余人を京師に集め、邸宅を与えて経書を学ばせ、自ら監督し試験した。
  • また、河南尹の豹や越騎校尉の康に対し、外戚や富貴の家の子弟が学問を怠り、善悪もわからぬことが、禍の原因であると戒めた。
  • 豫章で芝草が生え、太守の劉祗はこれを瑞祥として上奏しようとしたが、郡人の唐檀は、今は外戚が強く君道が弱い時であり、めでたい徴とは言えないと諫め、上奏は取りやめられた。

益州平定と西域問題

  • 益州刺史の張喬は従事の楊竦に兵を率いさせて楪榆に進ませ、封離らを大破し、三万余級を斬り、生口千五百余を得た。封離らは恐れて同盟の渠帥を斬り、降伏を願い出た。
  • 残る三十六種も相次いで帰服したため、楊竦は、蛮夷を侵害していた奸猾な長吏九十人を奏上し、死罪相当でも減刑に処した。
  • かつて西域諸国は漢との連絡が絶えていたが、北匈奴が再び軍威で服属させ、辺境侵擾に利用していた。敦煌太守の曹宗はこれを憂え、行長史の索班に千余人を与えて伊吾に駐屯させ、招撫を試みた。
  • これに応じて車師前王と鄯善王が再び漢に降った。
  • 疏勒では安国王が死んで後継ぎが幼少だったため、その叔父の臣磐が月氏の後援で帰国して王位を奪い、のちに莎車が于窴から離れて疏勒に属したことで、疏勒は強国となり、龜茲・于窴と対立する勢力になった。