西域再建をめぐる朝議
- 春三月丁酉、済北恵王寿が薨じた。
- 北匈奴は車師後王の軍就らと結び、後部司馬および敦煌長史の索班らを殺し、さらに前王を追い払って北道一帯を押さえた。鄯善は圧迫され、曹宗に救援を求めた。
- 曹宗は五千の兵で匈奴を討ち、西域を回復したいと上請したが、公卿の多くは玉門関を閉ざして西域を放棄すべきだと考えた。
- 皇太后は班超の子・班勇を朝堂に召して意見を求めた。班勇は、武帝・明帝以来、西域経営は匈奴の勢力を削ぎ、河西を安んずる要だったと説き、拙速な遠征には反対しつつも、敦煌に営兵三百を復置し、西域副校尉を敦煌に置き、さらに長史五百人を楼蘭西方に屯して鄯善・于窴・龜茲への要路を押さえるべきだと述べた。
- これに対し、長楽衛尉の鐔顕、廷尉の綦母参、司隷校尉の崔据、太尉属の毛軫らは、費用と諸国の要求増大を懸念して反対した。
- 班勇は、放置すれば匈奴が西域の財貨と兵力を得て、かえって边郡に大害を及ぼすと反論し、最終的に彼の案が採用され、敦煌営兵三百の復置と西域副校尉の再設が決まった。ただし、楼蘭西方への実際の進出はまだ行われなかった。
- その後も匈奴はしばしば車師とともに河西を侵し、大きな被害を与えた。沈氐羌も張掖を寇した。
改元と羌討伐
- 夏四月丙寅、皇子の保が皇太子に立てられ、改元して永寧とし、天下に大赦した。
- 己巳、陳敬王の子の崇を陳王に、済北恵王の子の萇を楽成王に、河間孝王の子の翼を平原王に封じた。
- 六月、護羌校尉の馬賢が一万人を率いて張掖で沈氐羌を討ち、千八百級を斬り、生口千余を得た。残党もすべて降伏した。
- しかし当煎らの大豪である飢五は、馬賢の軍が張掖にいる隙をついて金城を寇した。馬賢は軍を返し、塞外で数千級を斬って帰ったが、焼当・焼何の種族は馬賢の軍の帰還を聞いてまた張掖を襲い、長吏を殺した。
宮廷と外交
- 秋七月朔、日食があった。
- 冬十月、司空の李郃が罷免され、癸酉に衛尉の陳褒が司空となった。
- 京師と三十三郡国で大水があった。
- 十二月、永昌徼外の撣国王・雍曲調が使者を送り、楽人と幻術師を献じた。幻人は火を吐き、身体を切り離し、牛馬の頭を入れ替えるなどの芸を見せ、自ら海西の人だと称した。海西とは大秦を指す。
- 戊辰、司徒の劉愷が引退を願い出て許され、千石の禄で帰養した。
- 遼西の鮮卑大人の烏倫・其至鞬が、それぞれ部衆を率いて鄧遵に降った。
- 癸酉、太常の楊震が司徒となった。
- この年、二十三地で地震があった。
鄧康の諫め
- 皇太后の従兄弟で越騎校尉の康は、皇太后が長く朝政を執り、宗族の勢いが満ちすぎていることを憂え、公室を重んじ私権を減らすべきだとしばしば上書したが、太后は従わなかった。
- 康は病と称して朝参をやめた。太后が内侍を遣わして見舞わせると、その使者はもと康家の婢で、今は宮中で中大人と呼ばれるほどの者だった。康はこれを罵った。
- 婢は恨んで、康が詐病で不遜な言をしたと太后に告げた。太后は怒らなかったが、康を免官して国に帰し、宗籍から外した。
- そのころ、当煎種の飢五と同族の大豪・盧怱や忍良ら千余戸は、允街に留まり、漢にも羌にも与する二股の姿勢を取っていた。