資治通鑑漢紀 孝安皇帝 元初 四年 117年

災異と袁敞事件

  • 春二月朔、日食があり、乙卯に天下へ大赦が出された。壬戌には武庫で火災が起きた。
  • 任尚は当闐種の羌である榆鬼らを使って杜季貢を刺殺させ、その功で榆鬼を破羌侯に封じた。
  • 司空の袁敞は廉直で、権貴に阿らなかったため鄧氏の意にそぐわなかった。尚書郎の張俊は私信を利用して袁敞の子に罪を着せ、仇敵を通じて上奏した。
  • 夏四月、袁敞は策免されて自殺し、張俊らも投獄され死罪相当となったが、張俊の訴えにより、臨刑時に皇太后が減刑を命じた。

北辺・西南の軍事

  • 己巳、遼西の鮮卑の連休らが侵入したが、郡兵と烏桓大人の於秩居らが連合して大破し、千三百級を斬った。
  • 六月、三郡に雹が降った。
  • 益州方面では尹就が反羌を平定できなかった責任を問われ、召還されて罪に服した。代わって益州刺史の張喬が軍を率い、駐屯しつつ叛羌を招諭したため、しだいに降散した。
  • 秋七月、京師と諸郡国で大水があり、九月には護羌校尉の任尚が功を立てたい羌の種族を募り、零昌を刺殺させた。号封がその功により羌王とされた。

越嶲の反乱と羌の大敗

  • 冬十一月、彭城靖王恭が薨去した。
  • 越嶲では、郡県の課税・徴発が煩雑で頻繁だったため、住民の不満が高まり、十二月、大牛種の封離らが反乱して遂久令を殺害した。
  • 甲子、任尚は騎都尉の馬賢とともに先零羌の狼莫を攻め、北地まで追撃した。六十余日対峙した後、富平河上で大勝し、五千級を斬った。狼莫は逃走した。
  • これを受けて、西河の䖍人種羌一万人が鄧遵に降り、隴右は平定された。狼莫は零昌の主謀の一人であり、その敗走で羌は支えを失った。
  • この年は十三地で地震があった。