資治通鑑漢紀四十一 孝安皇帝上 永初 三年 109年
春:飢饉と魯恭の退任
- 正月、皇帝が加冠し、大赦があった。
- 騎都尉の任仁が三輔救援のため諸郡屯兵を督したが、たびたび戦いに敗れた。
- 当煎・勒姐羌が破羌県を陥とし、鍾羌が臨洮県を落として、隴西南部都尉を捕えた。
- 三月、京師で大飢饉となり、人が人を食う事態にまで至った。
- 公卿が宮門に詣でて謝罪すると、詔で過ちを改め、できる限り政務を補うよう求められた。
- 司徒の魯恭が罷免された。魯恭は二度にわたり三公となり、高第の人材を多く列卿・郡守に送り出したが、門下の老儒の中には推薦されず不満を抱く者もいた。魯恭は、学問を究めさえすれば郷里から推挙されるのであり、三公の辟召を待つ必要はないとし、学者には徹底した質疑を課してから送り出した。
夏:売官による財政補填と清河王家
- 四月、九江の夏勤を司徒に任じた。
- 国用不足のため、三公は吏民に金銭や穀物を納めさせ、その見返りに関内侯・虎賁・羽林郎・五官大夫・官府吏・緹騎営士などの官位を与えるよう上奏した。
- 清河愍王虎威が死去し、子がなかった。
- 五月、楽安王寵の子の延平を清河王に封じ、清河孝王の後を継がせた。
夏〜秋:北辺・海賊・匈奴
- 六月、漁陽の烏桓と右北平の胡が千余人で代郡・上谷に侵入した。
- 漢人の韓琮が南匈奴単于に、関東は洪水で民が飢え死に絶えたので攻め時だと吹き込み、単于はこれを信じて叛いた。
- 秋七月、海賊の張伯路らが沿海九郡を荒らし、二千石や令長を殺したため、侍御史の龐雄に州郡兵を率いさせて討たせた。張伯路らはいったん降伏したが、すぐに再集結した。
- 九月、雁門の烏桓の有力者無何允が、鮮卑の丘倫らと南匈奴の骨都侯ら七千騎を率いて五原に侵攻し、太守と高渠谷で戦って漢軍を破った。さらに南単于は中郎将の耿种を美稷に包囲した。
冬:反撃と節倹の徹底
- 十一月、大司農の何熙に車騎将軍の任を代行させ、龐雄を副将とし、五営と辺郡兵二万余人を動員した。遼東太守の耿夔には鮮卑などと協力させ、梁慬には度遼将軍事を代行させた。
- 龐雄・耿夔らは、南匈奴の薁鞬日逐王を破った。
- 十二月、各地で地震があり、天苑に彗星が現れた。
- この年も京師と郡国四十一で洪水が起こり、并州・涼州は大飢饉で人肉食に及んだ。
- 太后は陰陽不和と軍役頻発を憂え、年末の衛士饗遣では見世物や楽をやめ、逐疫の侲子も半減した。