資治通鑑漢紀四十一 孝安皇帝上 永初 四年 110年
正月:倹約の継続と人材登用
- 正月の元会では、例年庭中に並べる車輿や法物を陳列せず、飢饉への配慮を示した。
- 鄧隲は在位中、かなり人材登用に努め、何熙・李郃らを朝廷に進めた。また弘農の楊震や巴郡の陳禅を幕府に招いたため、世に称賛された。
- 楊震は貧しくして学を好み、欧陽尚書に通じ、広く諸儒を渉猟した。人々は「関西孔子」と呼んだ。
- 彼は長年出仕を辞退していたが、五十歳を過ぎて鄧隲に辟召され、のち荊州刺史・東萊太守となった。赴任途中の昌邑で、かつて自分が推挙した王密が夜に黄金十斤を贈ろうとしたが、楊震は「天知る、地知る、我知る、子知る」と言って拒んだ。
- さらに涿郡太守となった後も公正廉潔で、子孫に財産を残すより「清白吏の子孫」と呼ばれることこそ厚い遺産だとした。
春〜夏:張伯路再起と南匈奴鎮圧
- 張伯路が再び郡県を攻めて守令を殺し、勢力を増したため、御史中丞の王宗に幽州・冀州の兵を発して討たせた。宛陵令の法雄を青州刺史に抜擢し、王宗と協力させた。
- 南単于は耿种を数か月包囲したが、梁慬・耿夔が属国故城で別将を斬り、さらに単于自身との会戦にも勝ったので、単于は虎沢へ退いた。
- 丙午、百官と州郡県の俸給を差等をつけて減額した。
二月:羌戦線と三輔防衛策
- 二月、南匈奴が常山を寇し、滇零は褒中にも兵を送った。漢中太守の鄭勤は褒中へ移駐した。
- 任尚は長く出征しても戦果がなく、民は農桑を失っていたため、朝廷は彼に吏民を率いて長安へ戻るよう命じ、南陽・潁川・汝南の吏士は帰郷させた。
- 京兆虎牙都尉と扶風都尉を置き、長安・雍に駐して、旧都西京にならった三輔防衛体制を整えた。
邊郡移転論争:虞詡の反対
- 謁者の龐参は、辺郡で自立できない民を三輔へ移すよう鄧隲に勧め、鄧隲はこれに傾いた。涼州を放棄し、北辺防衛に力を集中しようとしたのである。
- 鄧隲は公卿を集め、「破れた衣を一方で補えば、まだ着るところは残る」とたとえて涼州放棄案を主張した。
- これに対し、郎中の虞詡は、第一に先帝が苦労して開拓した地を小費を惜しんで捨てるのは不可、第二に涼州を棄てれば三輔が最前線となって園陵が危うくなる、第三に涼州の士民が見捨てられれば怨みを抱き、豪傑が氐羌を率いて東進すれば函谷関西は漢土でなくなると論じた。
- さらに、関西は名将を多く出す土地であり、羌胡が三輔へ深く入らないのも涼州が背後にあるからだと説いた。胡三省は後年の北宮伯玉・韓遂らの乱がこの警告どおりになったと評している。
- 虞詡は、涼州豪傑や牧守の子弟を中央の諸府に召して恩義でつなぎ、外に励まし内に抑える策も述べた。張禹はこれを是とし、四府とも同意した。こうして西州豪傑が掾属や郎として登用され、地方の不安はやや和らいだ。
- 鄧隲はこれで虞詡を憎み、官法で陥れようとした。
朝歌の賊と虞詡の治績
- ちょうど朝歌の賊・寧季ら数千人が長吏を殺して聚衆していたため、虞詡は朝歌長に任じられた。故旧は不遇として弔ったが、虞詡は難事こそ功を立てる時だと笑った。
- 河内太守の馬稜に対し、賊が真に恐るべき存在なら敖倉を奪い、成皋を守って天下の右腕を断つはずだが、そうしない以上は温飽目当ての烏合衆にすぎないと語った。
- 赴任後、掾史以下に知る壮士・無頼者を募らせ、強盗・傷害・盗み・無産者の三科を設けて百余人を集めた。宴を開いて罪を赦し、その一部を賊中へ潜入させて誘い出し、伏兵で数百人を討った。
- また、貧者で裁縫できる者を雇って賊の衣を作らせ、裾に目印の糸を縫いこませ、市中に現れた者を捕えた。賊は恐れて散り、県境は平定された。
三月〜四月:匈奴講和と羌の再侵攻
- 三月、何熙の軍は五原の曼柏で病により進めなくなり、龐雄・梁慬・耿种が歩騎一万六千で虎沢を攻めた。南単于は漢軍の進撃に恐れ、韓琮を責めたうえで降伏を願った。
- 漢はこれを許し、単于は帽子を脱ぎ素足で出て死罪を謝した。捕らえられていた漢民男女や、羌から略取されて匈奴へ売られた者一万余人が返還された。
- 何熙が死去したため、梁慬を度遼将軍に任じ、龐雄は大鴻臚へ戻った。
- 先零羌が再び褒中を寇した。鄭勤は出撃を主張したが、主簿の段崇は敵の勢いが鋭いので守るべきだと諫めた。鄭勤は従わず出戦して大敗し、三千余人が戦死した。段崇と門下史の王宗・原展も身を挺して鄭勤とともに死んだ。
- 金城郡は襄武へ移された。
- 杜陵園で火災が起こり、各地で地震が相次ぎ、六州で蝗害が発生した。
夏〜秋:海賊討伐と羌情勢
- 四月、天下に大赦。
- 王宗と法雄は張伯路を連戦連敗に追い込んだが、赦書が届いた時点で賊はまだ降伏しにくい状態だった。王宗らは追撃続行を論じたが、法雄は、海上へ逃げ込まれると討伐は難しいので、まず兵を解いて安心させ、自然に瓦解させるべきだと説いた。王宗はこれを採用した。
- 賊は喜んで略奪民を返したが、なお東萊郡兵が武装解除していなかったため再び恐れ、遼東の海島へ逃げた。胡三省は、ここでも法雄の見通しの的確さを認めている。
冬:人事と外戚の葬礼
- 七月、任仁は羌との戦いに連敗し、兵士の規律も乱したため、檻車で召され廷尉に下されて死んだ。
- 護羌校尉の段禧が死に、侯覇が再任されたが、今度は張掖へ移って駐屯した。護羌校尉の治所移転については、令居・安夷・臨羌・狄道などの変遷が注されている。
- 九月、益州郡で地震。
- 皇太后の母、新野君が病み、太后はその邸に何日も留まった。三公が強く諫めたため、ようやく宮中へ帰った。
- 十月、新野君が死去し、司空が葬儀を取りしきり、その礼は東海恭王に準じた。
- 鄧隲らが服喪のため辞職を願うと、太后は許さぬつもりだったが、曹大家が上疏して、今その謙譲を妨げれば、後日少しでも過失があった際に美名は再び得られないと諫めたため、許可した。
- 服喪後には復帰を命じ、旧封も再び与えようとしたが、鄧隲らはなお固辞した。以後、彼らは朝請に参与し、位は三公の下・特進侯の上に置かれ、大きな議論の際のみ朝堂で公卿と協議した。
- さらに太后は、かつて南方へ移された陰皇后の一族を故郡へ帰し、財産五百万余を返還した。