資治通鑑漢紀四十一 孝安皇帝上 永初 五年 111年
正月〜三月:災異と羌の進出
- 正月朔に日食があり、まもなく十郡国で地震があった。
- 太尉の張禹が免じられ、李修が太尉となった。
- 先零羌が河東に侵入し、さらに河内にまで及んだため、百姓は恐れて南へ逃げ、黄河を渡る者が多かった。北軍中候の朱寵に五営兵を率いさせ、孟津に駐屯させた。
- 魏郡・趙国・常山・中山では、羌が河東・河内から北上して冀州へ入るのに備え、塢候六百十六所を修築した。
- 辺境諸郡の太守・令長には内地出身者が多く、防戦の意思に乏しかったため、競って郡県の移転を願い出た。
三月:郡県移転の苦しみ
- 三月、隴西郡を襄武へ、安定郡を美陽へ、北地郡を池陽へ移し、上郡は衙を治所とした。
- しかし百姓は故土を離れがたく、禾稼を刈り取り、家屋を壊し、営壁や蓄積を崩して移転した。旱蝗と飢饉のうえに強制移住と掠奪が重なり、流離しつつ道中で死ぬ者が多く、老弱を捨てる者や人の奴婢となる者まで出て、生存者は半ばを失った。
- 任尚はふたたび起用されて侍御史となり、上党の羊頭山で羌を破ったため、孟津の駐屯軍は解かれた。
夏〜秋:東北の異民族と海賊終息
- 夫余王が楽浪を寇し、高句驪王宮は濊貊とともに玄菟を寇した。
- 閏四月、涼州・河西四郡に大赦が下った。
- 海賊の張伯路が再び東萊を荒らしたが、青州刺史の法雄がこれを破り、賊は遼東へ逃れた。遼東の人李久らが張伯路を斬り、この長期の海賊乱はようやく平定された。
冬:漢陽の内応事件
- 九月、漢陽の杜琦、その弟の季貢、同郡の王信らが羌と通じて衆を集め、上邽城を占拠した。
- 冬十二月、漢陽太守の趙博は、客分の杜習を使って杜琦を刺殺させた。杜習は討奸侯に封じられた。
- しかし杜季貢・王信らはなお部衆を率いて樗泉営に拠った。
- この年は九州で蝗害、八郡国で水害が起こった。