資治通鑑漢紀四十一 孝安皇帝上 永初 二年 108年
正月〜二月:羌戦線の悪化と救民策
- 正月、鄧隲が漢陽に着いたが、諸郡の兵がまだ到着しないうちに、鍾羌数千が冀県西方でこれを破り、千人余りが戦死した。
- 梁慬は敦煌から戻る途中で詔を受け、そのまま諸軍の援軍となった。張掖で羌を一万人以上破り、姑臧まで進むと、羌の有力者三百余人が降伏したので慰撫して帰郷させた。
- 御史中丞の樊準は、連年の水旱で飢えた民を救うため、太官・尚方・考工・上林池籞などの不要経費を実際に削減し、五府や中都官吏、京師の工事人夫も減らすべきだと上疏した。
- また、被災地の窮民には、武帝時の先例にならって使者を派遣して慰撫し、とくに困窮する者は荊州・揚州など豊かな郡へ移住させるよう求めた。西方の羌戦より、東方の民救済を先にすべきだとも論じた。
- 太后はこれを容れ、公田の収益を貧民に分け与え、樊準と議郎の呂倉を光禄大夫の代理とし、冀州・兗州へ派遣して流民を救済させた。多くの民が立ち直った。
夏:太后の録囚と恵みの雨
- 夏に旱魃があり、五月、皇太后は洛陽の官署や若盧獄を訪れて囚徒を調べた。
- 洛陽では、実際には殺人していないのに拷問で自白させられた囚人が、憔悴して担架に載せられていた。退出時に顔を上げて訴えようとしたのを太后が見抜き、事情を調べて冤罪を確かめた。洛陽令はその場で逮捕され、獄に下されて罪を受けた。
- 太后がまだ宮中へ帰らないうちに恵みの雨が降り、その後、京師と四十郡国で大水・大風・雹が起きた。
秋:広川王の死と大敗
- 太白が北斗に入った。天文上、貴人や宰相に凶兆とされた。
- 閏月、広川王常保が死去し、子がなかったため国を除いた。
- 蜀郡の辺境外の羌が、ふたたび部族を挙げて内附した。
- 冬、鄧隲は任尚と従事中郎の司馬鈞に諸郡兵を与え、滇零ら数万人と平襄で戦わせたが大敗し、八千余人が戦死した。羌勢はさらに強まり、朝廷は制御できなくなった。
- 湟中諸県では米価が高騰し、民の死者は数え切れず、輸送負担も極めて重かった。
龐参の建言と鄧隲の帰還
- 若盧に服役していた河南の龐参は、子の俊を通じて上書し、西方へ万里の輸送を続けるより、兵を養って敵の疲れを待つべきだと論じた。鄧隲は軍をまとめて一度引き、任尚に涼州士民を三輔へ移させ、徭役と課税を止めて民力回復を図るべきだと提案した。
- 樊準も龐参を推薦したため、太后は彼を徒刑囚の中から抜擢して謁者とし、西方へ派遣して三輔諸軍を監督させた。
- 十一月、鄧隲に帰還命令が出され、任尚が漢陽に残って諸軍の節度を掌ることになった。鄧隲は到着後、大将軍に任じられ、大鴻臚が出迎え、中常侍が郊外で慰労し、王や公主まで道に出て迎えるほどの栄誉を受けた。胡三省は、戦果の乏しい帰還でなおこの栄寵を受けるのは不終の兆しだと見る。
年末:滇零の僭号と梁慬の奮戦
- 滇零は北地で自ら天子を称し、武都の参狼羌、上郡・西河などの諸羌を集めて隴道を断ち、三輔を寇掠した。さらに南下して益州にも入り、漢中太守の董炳を殺した。
- 梁慬は本来金城に屯する予定であったが、羌が三輔に入ったと聞いて急行し、武功・美陽の間で転戦して連勝し、羌を退かせた。
- 十二月、広漢塞外の参狼羌も降伏した。
- この年も各地で地震が多発した。