資治通鑑漢紀四十一 孝安皇帝上 永初 一年 107年
正月〜三月:新帝即位後の諸事
- 正月朔、天下に大赦が下された。
- 蜀郡の辺境外の羌が内附した。
- 二月、清河国の一部を分けて、皇帝の弟の常保を広川王に封じた。
- 司徒の梁鮪が死去した。
- 三月、日食があった。
- 永昌郡の辺境外に住む僬僥系の夷、陸類らが部族を挙げて帰附した。
- 清河孝王慶を広丘に葬り、その葬礼は東海恭王に準じた。
四月:鄧氏への大封爵
- 和帝崩御以来、鄧隲兄弟は長く禁中にとどまっていたが、鄧隲は退出を願い出て、太后もこれを許した。
- 四月、張禹・徐防・尹勤・鄧隲・鄧悝・鄧宏・鄧閶らに列侯の爵を与え、食邑はそれぞれ一万戸とした。鄧隲には策立の功としてさらに三千戸を加えた。
- 鄧隲兄弟はたびたび固辞し、ついには使者を避けて宮門へ直訴したが、最終的に許されなかった。
五月:裁判時期の見直し
- 長楽衛尉の魯恭を司徒に任じた。
- 魯恭は、近年、立秋ではなく孟夏から軽刑の執行・裁判処理を進めるように改められた結果、盛夏に農民が召し出されて農事に害が出ていると上奏した。軽罪の整理は行ってよいが、本格的な決獄・審理は立秋まで待つべきだと論じた。
- また章帝の意向を踏まえ、死刑にあたる大辟の判決は冬至前まで引き延ばし、軽率な処断を防ぐべきだとした。朝廷はこれを受け入れた。
- 北海王睦の孫の普を北海王に封じ、家を継がせた。
六月:西域放棄と羌の反乱拡大
- 九真郡の辺境外に住む夜郎系の蛮夷も土地ごと内属した。
- 西域では段禧らが龜茲を確保していたが、道がふさがれて朝命も届きにくく、公卿たちは西域経営の費用と反復する叛乱を問題視した。
- 六月、ついに西域都護を廃止し、王宏に関中の兵を率いさせ、段禧・梁慬・趙博および伊吾盧・柳中の屯田吏士を撤収させた。
- これが羌反乱拡大の導火線となった。もともと焼当羌の豪族・東号の子の麻奴は安定に住んでいたが、降羌たちは長く郡県や豪族に使役されて不満を蓄えていた。
- 王宏が西方へ向かう際、金城・隴西・漢陽の羌を数多く動員したが、郡県が無理に発遣したため、彼らは帰れなくなることを恐れて途中で離散した。各郡がさらに兵で追い立てたため、勒姐・当煎の豪族東岸らは一斉に潰走し、麻奴兄弟も同族を率いて塞外へ去った。
- 滇零が鍾羌など諸種をまとめて大規模な掠奪を始め、隴道を断った。降羌は長年服属していたため武器を失っており、竹や木、板や銅鏡を武器や盾の代わりに使う者すらいたが、郡県は臆して制御できなかった。
- 朝廷は、相互に結んで叛逆をはかった羌の罪を赦免すると布告した。
秋九月:三公の罷免と政局批判
- 太尉の徐防は災異と寇賊の責任を問われて策免され、司空の尹勤も水害によって罷免された。災異を理由に三公を免ずる慣行はこの時から目立つようになった。
- 仲長統はこの状況を批判し、光武帝以後、三公の権限は台閣に奪われ、外戚や宦官が実権を握っているのに、政治不良の責任だけが三公に押しつけられていると論じた。
- さらに当時の三公人事は、清廉で慎重だが旧習に従うだけの人物を選びがちで、国家と民生を担うには力不足だとも評した。鄧通と申屠嘉を引き、真に権限と責任を一致させねばならないと説いた。
冬:節減・新任・政変未遂
- 太僕・少府の黄門鼓吹を減らして羽林士に回し、厩馬のうち天子が常用しないものは飼料を半減させ、宗廟・園陵以外の造作も停止した。
- 十月、張禹を太尉、周章を司空とした。
- 大長秋の鄭衆、中常侍の蔡倫らが権勢を振るい政務に関与した。周章はしばしば直言したが、太后には用いられなかった。
- もともと太后は平原王勝に持病があり、しかも欲深いとして立てず、幼い殤帝を養子として立てた。だが殤帝が崩じると、群臣の多くは勝の病は重くなく、彼を立てるべきだと考えた。太后は以前に立てなかったことを勝に怨まれるのを恐れ、清河王祜を立てた。
- 周章は人心が太后に従っていないと見て、宮門を閉じ、鄧隲兄弟と鄭衆・蔡倫を誅し、太后を南宮に退け、皇帝を遠国王に降し、平原王勝を立てる密謀を進めた。しかし発覚し、十一月に自殺した。
十二月:民心不安と北辺情勢
- 民間では流言が広がり、住居を捨てて移動する者が続出した。司隷校尉および冀州・并州刺史に対し、各郡県の長吏がみずから説諭し、故郷へ戻りたい者には通行文書を与え、望まぬ者に無理強いしないよう命じた。
- 十二月、張敏を司空とした。
- 鄧隲と任尚に五営および諸郡兵五万人を与え、漢陽に駐屯させて羌に備えさせた。
- この年、各地で地震・洪水・大風・雹が相次いだ。
- 鮮卑の大人・燕荔陽が朝賀に来たため、太后は王印綬と赤車参駕を与え、烏桓校尉のもとに近い寧城下に住まわせ、胡市を通じさせた。あわせて南北二部の質館を築き、百二十部が人質を送った。