資治通鑑漢紀四十一 孝殤皇帝 延平 一年 106年

春正月:幼帝を補佐する体制

  • 春正月、太尉の張禹を太傅に、司徒の徐防を太尉として尚書事を兼ねさせた。皇太后は皇帝がまだ幼児であるため、重臣を宮中に近く置き、張禹には宮中に宿して五日に一度だけ府へ戻ることを許した。また朝見では特別な礼遇を与え、三公と同列には置かなかった。
  • 皇帝の兄の勝を平原王に封じた。
  • 光禄勲の梁鮪を司徒に任じた。

三月:和帝の葬儀と諸王の帰国

  • 三月、孝和皇帝を慎陵に葬り、廟号を穆宗とした。
  • 清河王慶・済北王寿・河間王開・常山王章がそれぞれ国へ赴いた。太后はとくに清河王慶に格別の礼を加えた。
  • 慶の子の祜は十三歳であったが、太后は将来の不測を考え、祜を嫡母の耿姫とともに清河邸に留めた。祜の生母は犍為の左姫であり、耿姫は耿況の曾孫にあたる。

夏四月:鮮卑との戦いと鄧氏の台頭

  • 鮮卑が漁陽に侵入した。漁陽太守の張顕は数百人を率いて塞外へ追撃しようとしたが、兵馬掾の厳授は地形の険しさと伏兵の危険を理由に慎重策を進言した。張顕は聞き入れず進軍し、伏兵に遭って軍は潰走した。
  • 厳授だけは踏みとどまって奮戦し、重傷を負いながら数人を討って戦死した。主簿の衛福、功曹の徐咸も張顕とともに戦没した。
  • 虎賁中郎将の鄧隲を車騎将軍とし、三公と同等の待遇を与えた。これは後世の制度上、重要な先例とされた。弟の鄧悝を虎賁中郎将、鄧宏・鄧閶を侍中とした。
  • 司空の陳寵が死去した。

五月〜六月:災異と節約令

  • 五月、天下に大赦が下された。
  • 河東の垣山が崩れた。六月には尹勤を司空に任じ、各地三十七郡国で長雨と洪水が起きた。
  • 皇太后は宮中のぜいたくを大幅に削減した。大官・導官・尚方・内署の珍味や豪奢な器物を減らし、陵廟への供え以外では精選した米の使用を禁じ、日々の食事も簡素にした。
  • さらに太官・湯官の年間経費を大きく切り詰め、郡国からの貢納も半分以上減らし、上林苑の鷹犬や離宮・別館に蓄えていた食糧・薪炭なども整理・縮小させた。
  • 掖庭の宮人や、罪に連座して没入されていた宗室の者も釈放し、庶民の身分に戻した。

秋七月:地方官への厳しい詔

  • 七月、司隷校尉と諸州刺史に対し、災害の隠蔽、戸口や耕地の水増し、盗賊の隠匿、不当な人事、苛酷な政治を厳しく戒める詔が出された。
  • 今後は実態を正確に調査し、被害地には田租や芻稾の免除を行うよう命じた。

八月:殤帝の崩御と安帝の擁立

  • 八月、孝殤皇帝が二歳で崩御した。崇徳前殿に殯し、皇太后は兄の鄧隲や鄧悝らと宮中で後継を定めた。
  • その夜、鄧隲が節を持って清河王慶の子・祜を迎え入れた。祜はいったん長安侯に封じられたのち、孝和皇帝の後継とされ、璽綬を受けて即位した。これが孝安皇帝である。
  • 皇太后は引き続き臨朝した。外戚の賓客が法を乱し民を苦しめるのは、執法官の怠慢によるものだとして、司隷校尉・河南尹・南陽太守に厳重な取り締まりを命じた。鄧氏の一門も例外としない方針が示され、以後は親属の犯罪にも容赦しなかった。

九月〜冬:水害・葬儀・西域の変動

  • 九月、六州で大水が起きた。孝殤皇帝を康陵に葬った。連年の水害と民力の疲弊を考慮し、陵墓の内部造営や諸工事は大幅に節減された。
  • 陳留に隕石が落ちた。
  • 北地の梁慬を西域副校尉とした。彼が河西に着くころ、西域諸国が反乱して都護の任尚を疏勒で包囲したため、河西四郡の羌・胡五千騎を率いて救援に向かった。到着前に任尚は包囲を脱していた。
  • 任尚を召還して段禧を西域都護、趙博を騎都尉とし、両者は它乾城を守った。梁慬はその城が守りに不利と見て、亀茲王白霸を誘って共同防衛に持ち込み、段禧・趙博の兵も合わせて防戦した。亀茲国内で反乱が起き、温宿・姑墨も加勢したが、梁慬らはこれを破り、西域情勢をひとまず安定させた。

冬十月〜十二月:清河王慶の死と学問振興

  • 冬十月、四州で大水と雹があった。
  • 清河孝王慶は重病となり、母の樊貴人・宋貴人の墓のそばに葬ってほしいと上表した。
  • 十二月、慶が死去した。また魚龍曼延のような大がかりな見世物は停止された。
  • 尚書郎の樊準は、儒学の風が衰え、博士が講義を怠り、学者も華美な言辞に流れていると上疏した。光武帝・明帝のように学問を尊重し、隠者や大儒を広く登用すべきだと説いた。
  • 太后はこれを重く受け止め、公卿・中二千石に対し、高徳の隠士や大儒を推挙し、博士も厳選するよう命じた。