資治通鑑漢紀四十 孝和皇帝下 永元 六年 94年

春正月 度遼将軍の交代

  • 皇甫稜を免じ、執金吾朱徽に度遼将軍を代行させた。

南匈奴安国単于の滅亡

  • このころ単于安国と使匈奴中郎将杜崇の関係が悪化していた。
  • 安国は杜崇を告発する上書を出したが、杜崇は西河太守に命じてその上奏を途中で握りつぶさせた。
  • その上で杜崇と朱徽は、安国が故胡を遠ざけ新降胡を近づけ、左賢王師子や左台且渠劉利らを殺そうとしているうえ、右部の降者と結んで反乱を企てていると奏上し、辺郡に警戒を求めた。
  • 公卿は、大軍が集結する以上いま直ちに大乱は起こるまいとして、方略ある使者を単于庭に送り、情勢を見極めた上で、もし違命があればその場の裁量で処断すべきだと議した。
  • 朱徽・杜崇は兵を進めて単于庭へ向かった。
  • 安国は夜に漢軍の接近を知って驚き、帳幕を捨てて逃れ、かえって師子を討とうとした。
  • 師子は先に知って廬落を率いて曼柏城に入り、安国が城下まで追っても門を閉ざして入れなかった。
  • 朱徽は使者を出して和解を勧めたが、安国は聞き入れず、五原に兵を置いた。
  • そこで諸郡の騎兵が追撃態勢をとると、安国の舅である骨都侯喜為らは、自分たちも連座して誅されることを恐れ、安国を殺した。
  • 師子が新たに亭独尸逐侯鞮単于として立てられた。

中央人事

  • 己卯、司徒丁鴻が死去した。
  • 二月丁未、司空劉方を司徒に、太常張奮を司空に任じた。
  • 夏五月、城陽懐王淑が死去し、子がなかったため国は除かれた。

秋 旱と班超の大戦果

  • 七月、京師が旱害に見舞われた。
  • 西域都護班超は、亀茲・鄯善など八国の兵七万余を集めて焉耆を討った。
  • 班超は焉耆王広と尉犂王汎を陳睦旧城に誘い出して斬り、その首を京師へ送った。
  • ついで軍に掠奪を許し、五千余の首級を挙げ、一万五千人を捕虜とした。
  • 焉耆の左侯元孟を新たな焉耆王に立て、半年にわたり慰撫を行った。
  • これにより西域五十余国はみな人質を送り内属し、西海沿岸の遠国に至るまで重訳して朝貢した。

南匈奴内乱の再燃

  • 師子単于が立ったのち、降胡五、六百人が夜襲をかけたが、安集掾王恬が護衛兵を率いてこれを破った。
  • しかし降胡たちは動揺し、十五部二十余万人が反し、屯屠何の子である薁鞬日逐王逢侯を単于に立てた。
  • 彼らは官吏と民を殺掠し、郵亭や帳幕を焼き、車重を伴って朔方方面から塞外へ出ようとした。

九月以後 大規模討伐

  • 九月癸丑、光禄勲鄧鴻に車騎将軍事を行わせ、越騎校尉馮柱・度遼将軍朱徽・烏桓校尉任尚とともに、羽林・北軍五校・郡国の迹射士・縁辺兵、さらに烏桓・鮮卑を合わせた大軍で逢侯討伐に向かわせた。
  • このとき南単于師子と中郎将杜崇は牧師城に駐屯していたが、逢侯は一万余騎でこれを包囲した。
  • 冬十一月、鄧鴻らが美稷に到着すると、逢侯は包囲を解いて満夷谷へ退いた。
  • 南単于の子と杜崇の軍が鄧鴻らに合流して大城塞で追撃し、四千余級を斬った。
  • 任尚も満夷谷で鮮卑・烏桓を率いて要撃し、さらに大破した。
  • 前後の戦果は一万七千余級にのぼり、逢侯はついに塞外へ逃れ、漢軍はそれ以上追えずに引き返した。

年末の人事と黄香

  • 大司農陳寵を廷尉とした。陳寵は仁愛深く、疑獄には経典に照らして寛恕を求めたため、苛酷な風はやや衰えた。
  • 皇帝は尚書令黄香を東郡太守にしようとしたが、黄香は自分は郡政向きでなく、尚書台の雑務を担当したいと辞した。
  • 皇帝はそのまま黄香を尚書令に留め、特に秩を二千石へ増し、厚く信任した。
  • 黄香は公務に精勤し、家事のように政務を憂えた。