資治通鑑漢紀四十 孝和皇帝下 永元 五年 93年

春正月 明堂宗祀

  • 乙亥、明堂で宗祀を行い、霊台に登ったうえで天下に大赦を行った。

諸王・大臣の死と封建

  • 戊子、千乗貞王伉が死去した。
  • 辛卯、皇弟万歳を広宗王に封じた。
  • 甲寅、太傅鄧彪が死去した。
  • 戊午、隴西で地震があった。
  • 夏四月壬子、阜陵殤王の兄魴を改めて阜陵王に封じた。
  • 九月辛酉、広宗殤王万歳が死去し、子がなかったため国は除かれた。

北匈奴残党の討滅と鮮卑の台頭

  • 竇憲が於除鞬を北単于に立てて北庭へ帰そうとしていたが、竇憲誅殺で中止となったため、於除鞬は離反して北へ帰った。
  • そこで朝廷は将兵長史王輔を千余騎で派遣し、任尚とともにこれを追討させた。於除鞬は斬られ、その衆も壊滅した。
  • 以前、耿夔が北匈奴を破って以来、鮮卑はその地へ移住して支配を広げていた。匈奴の残存部族も十余万落なお存在したが、多くが自ら鮮卑を称するようになり、鮮卑はしだいに強盛となった。

秋冬の人事

  • 冬十月辛未、太尉尹睦が死去した。
  • 十一月乙丑、太僕張酺を太尉に任じた。

曹褒の礼制案の停止

  • 張酺と尚書張敏らは、射声校尉曹褒が勝手に漢の礼制を定め、聖人の学を乱したとして、五度にわたり処罰を奏請した。
  • 皇帝は張酺が家学に固執して通融に乏しいことを知っていたので、その奏請は採用しなかったが、結果として曹褒の礼制案も施行されなかった。

武陵蛮の平定

  • この年、武陵郡の兵が反乱した蛮を破り、降した。

梁王暢の祈祷事件

  • 梁王暢は従官卞忌らと祭祀を行って福を祈っていたが、卞忌らが「神が王は天子となると言った」とへつらい、暢も応じる言動をしたため、司直から上奏された。
  • 有司は詔獄に召し出すことを請うたが、皇帝は許さず、ただ成武・単父の二県を削って梁国から除いた。
  • 暢は大いに恥じ入り、自らの罪を深く責める上疏を行い、国から受ける収入・妻妾・奴婢・兵士・馬・工人・鼓吹などの削減や返上まで願い出た。
  • しかし皇帝は優詔を下してこれを許さなかった。

貫友の羌政策

  • 護羌校尉貫友は、通訳使を遣わして諸羌の仲を離間し、財貨で誘って迷唐の勢力を解体させた。
  • ついで出塞して大小榆谷の迷唐を攻め、八百余の首虜を得、数万斛の麦を収めた。
  • さらに逄留の大河にまで進んで城塞を築き、舟橋と河橋を設けて迷唐を討つ態勢を整えた。
  • 迷唐は部落を率いて遠く賜支河曲に移住した。

南匈奴の継嗣争いの芽

  • 単于屯屠何が死去し、宣の弟安国が単于となった。
  • 安国は以前左賢王だったが名望がなく、代わって宣の嫡子の右谷蠡王師子が左賢王となった。
  • 師子は勇敢で知略があり、前の単于たちからも愛され、たびたび出兵して功を立て、漢からも厚く遇されていたので、国内では安国よりも師子が敬われていた。
  • 安国は師子を殺そうとし、新たに降った胡人たちの、かつて師子に掠奪された怨みを利用して謀議した。
  • 師子はこれを察知して、五原境に別居し、龍庭の会議にも病と称して出席しなくなった。
  • 度遼将軍皇甫稜も事情を知っており、師子を保護して派遣しなかったため、安国の恨みはますます深まった。