資治通鑑漢紀四十 孝和皇帝下 永元 四年 92年

春正月 北方・西域への処置

  • 大将軍の左校尉耿夔を派遣して、於除鞬に印綬を授けた。また中郎将任尚に節を持たせ、伊吾に駐屯してこれを護衛させ、南単于に対する先例にならう待遇とした。

周栄と竇氏への対立

  • もと廬江の周栄は袁安の府に召され、竇景を弾劾した上奏や、北単于擁立をめぐる議論の文案作成に深く関わっていた。
  • そのため竇氏側の人物である太尉掾徐齮から、竇氏の刺客に警戒せよと脅されたが、周栄は自分の身を犠牲にしてでも朝廷を目覚めさせたいとして屈しなかった。

袁安の死去と丁鴻の任用

  • 三月癸丑、司徒袁安が死去した。
  • 閏月丁丑、太常丁鴻を司徒に任じた。

夏四月 竇憲帰京

  • 四月丙辰、竇憲が京師へ帰還した。

六月 日食・地震・丁鴻の上疏

  • 六月戊戌朔、日食があった。
  • 司徒丁鴻は上疏し、外戚が権勢を専らにすれば国家の本が揺らぐと述べ、竇憲の威勢が公権を圧し、官人たちが朝廷より私門を重んじる風が生じていると強く戒めた。天変もその警告だとして、今こそ政治を改めるべきだと主張した。
  • このころ郡国十三で地震があり、旱害と蝗害も起きた。

竇氏一族の専権とその誅滅

  • 竇氏の父子兄弟は卿・校尉の地位を独占し、朝廷を満たしていた。鄧疊・鄧磊やその周辺も禁中に出入りし、太后に取り入って逆謀を図った。
  • 皇帝はひそかにこれを察知していたが、竇憲兄弟が権力を握り、外朝の臣と自由に接触できず、宦官だけが側近となっていた。
  • その中で中常侍・鉤盾令の鄭衆だけは豪族の党派に属さず、慎重で機略があるとして、皇帝は彼と誅殺計画を定めた。
  • ちょうど竇憲と鄧疊が帰京したため、皇帝は清河王慶を通じて外戚の前例や故事を密かに集めた。
  • 庚申、北宮に赴いた皇帝は、執金吾と五校尉に兵を率いさせて南北宮を固め、城門を閉じ、郭璜・郭挙・鄧疊・鄧磊を捕えて獄死させた。
  • さらに謁者僕射を遣わして竇憲の大将軍印綬を収め、冠軍侯に改封して本国へ向かわせ、竇篤・竇景・竇瓌もともに帰国させた。
  • ただし太后への配慮から、正面から誅殺の名目を立てることは避け、監督役をつけて各人を国へ送ったうえで、竇憲・竇篤・竇景には自殺を命じた。
  • 河南尹張酺は、かねて竇景を法で厳しく取り締まっていた。竇氏失脚後には、権勢のある時には群臣が競ってへつらい、威が落ちると今度は皆が死罪を唱える、その軽薄さを批判した上で、竇瓌には寛典を加えるべきだと進言した。
  • 皇帝はこれに感じ入り、竇瓌だけは命を全うすることができた。
  • 竇氏の宗族や賓客で、竇憲の力で官に就いていた者は皆免官され、本郡へ帰された。

班固の獄死と『漢書』完成

  • 班固の家の奴が酔って洛陽令种兢を罵ったことから、种兢は竇氏の賓客を取り調べる中で班固を逮捕し、班固は獄中で死んだ。
  • 班固が著していた『漢書』は未完であったため、その妹で曹寿の妻である班昭が後を継いで完成させた。
  • 史評では、班固の叙述は誇張や作為が少なく、詳密で体裁が整っていると高く評価された一方、司馬遷批判の中で仁義や節義を軽んじる傾向が強いとも論じられた。

李郃の先見

  • 竇憲が婚礼を行った際、諸郡国は皆祝礼を送った。漢中郡でも使者を出そうとしたが、戸曹李郃は、竇氏は外戚として徳を修めず専横しており、滅亡はすぐ先だと諫めた。
  • 太守は結局使者を出したが、李郃は自ら行くことを願い、道中でわざと滞留して情勢の変化を見守った。
  • 扶風に至るころ、竇憲はすでに本国へ追われており、竇氏と交通した者は皆免官されたが、漢中太守だけはその禍を免れた。

清河王慶への厚遇

  • 皇帝は清河王慶に奴婢・車馬・金帛・珍宝を与え、その邸を満たした。
  • 慶が病むことがあれば、皇帝は朝夕に見舞い、食事や薬の手配まで細かく気を配った。
  • 慶もまた、もと廃黜された身であることを忘れず、きわめて慎み深く法を守ったため、寵遇を長く保った。

竇氏に従わなかった者の登用

  • 袁安の子袁賞を郎に、任隗の子任屯を歩兵校尉に任じた。ともにその父が竇氏に迎合しなかったことを評価したものである。

鄭衆の昇進と宦官専権の端緒

  • 鄭衆を大長秋に昇進させた。
  • 皇帝が功績を評して褒賞すると、鄭衆はしばしば辞退し、少しだけ受け取った。皇帝はその廉直さを重んじ、常に政事を議論するようになった。
  • 宦官が権力に関与し始めたのは、このころからである。

秋から冬 人事・辺境

  • 七月己丑、太尉宋由は竇氏の党与として免官され、自殺した。
  • 八月辛亥、司空任隗が死去し、癸丑に大司農尹睦を太尉とした。
  • 太傅鄧彪は老病を理由に録尚書事を返上し、皇帝はこれを許し、尹睦にその職を代行させた。
  • 冬十月、宗正劉方を司空とした。
  • 武陵・零陵・澧中の蛮が反乱した。

鄧訓の死と羌胡の追慕

  • 護羌校尉鄧訓が死ぬと、羌・胡の人々は日々数千人単位で弔問に集まり、中には自傷したり、犬馬牛羊を殺して哀悼を示す者もあった。
  • かつて烏桓校尉であった時代の旧吏たちも、遠路はるばる空となった城郭まで弔いに来た。
  • 烏桓校尉徐傿はこれを義挙として許し、のちに家ごとに鄧訓の祠を立て、病があれば祈願するほどであった。

聶尚の失策と迷唐の再反

  • 蜀郡太守聶尚が鄧訓に代わって護羌校尉となり、諸羌を恩で懐柔しようとして、迷唐を大小榆谷へ呼び戻した。
  • 迷唐は帰還後、祖母卑鈌を聶尚のもとへ遣わした。聶尚は自ら塞まで送り、通訳官の田汜ら五人に護送させた。
  • しかし迷唐はそこで再び反し、諸種とともに田汜らを残忍に殺し、その血で盟約を立てて、再び金城の塞を寇した。
  • 聶尚はこの責任を問われ、免官となった。